第126回例会(2023年3月例会)
- 日時
- 2023年3月5日(日)
14:50〜15:00 Zoomのセッションへの入室受付
(15時以降も随時入室 受付いたします)
15:00~18:00 例会 - 場所
- オンライン
- 実施方式
- Zoomを用いたオンライン開催
- 事前登録URL
- 公開終了
* 準備の都合上、3月2日(木)までに事前登録ください。
* 非会員の方も当日会員として参加可能です。
* 3月4日(土)までに例会専用ZoomのURLを事前登録者にメールにてご案内いたします。セキュリティ確保のため、登録者以外にZoomのURLをお知らせいただくことはお控え下さい。
* 3月例会の問い合わせ先:vwoolfsocietyjpn@gmail.com
プログラム、特別招待発表・シンポジウム要旨は以下の通りです。
研究発表: 1.西脇智也氏(東京大学大学院生) |
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「教養小説」のパロディとしての『ジェイコブの部屋』 (Jacob’s Room as a parodic ‘Bildungsroman’) |
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2.松﨑翔斗氏(広島大学大学院生) | ||
黙殺される自己——『灯台へ』と『幕間』における絵画の眼差し (Elided Self: Gaze of Paintings in To the Lighthouse and Between the Acts) |
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3.栁澤彩華氏(東京大学大学院生) | ||
家族と“Strangers” ―― The Yearsにおける「系譜学的家族」のクィアな組み替え (Family and “Strangers”: Queer Reconfiguration of “Genealogical family” in The Years) |
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4.小室龍之介氏(都留文科大学特任准教授) | ||
『めぐりあう時間たち』とフィリップ・グラスによる映画音楽 (Approaching The Hours through its Film Music by Philip Glass) |
3月例会発表の概要
研究発表1
「教養小説」のパロディとしての『ジェイコブの部屋』
東京大学大学院博士後期課程 西脇 智也
本発表は、ヴァージニア・ウルフの『ジェイコブの部屋』(Jacob’s Room)を主人公ジェイコブ・フランダースの成長の失敗を描いた「教養小説」のパロディとして再読し、ウルフの初期創作における物語の時間性について考察する。
本作のあらすじは主人公の少年期から青年期にかけての成長に即して辿ることができる。コーンウォールとスカーバラでの少年期、ケンブリッジでの大学生活、ロンドンでの知的ボヘミアンとしての交友や女性たちとの交際、ギリシア旅行を経て第一次世界大戦での死に至るまでのジェイコブの生涯が断片的な形で描かれている。
教育や恋愛といった人生経験は、『トム・ジョーンズ』や『デヴィッド・コパフィールド』といった「教養小説」では、男性主人公が近代資本主義社会のなかでブルジョワ紳士へ自己形成を遂げる過程における重要な局面として描かれてきた。しかしそれらは『ジェイコブの部屋』では主人公の成長や自己形成の契機とはならない。ジェイコブは、教授たちの保守的な芸術観に辟易しながらも明確に反抗せず、女性嫌悪を克服できぬまま不毛な恋愛を繰り返し、同時代の文芸批評における検閲と道徳主義に義憤を示しながらも批判的な書き手として大成することもない。
本作は、英国紳士の教科書的な成長過程を現実の人生の似姿のように見せかけてきた「教養小説」のジャンルに対する嘲弄的なパロディとして解されてきた。その際に注目されるのはケンブリッジの老教授陣の滑稽な描写や知的伝統に対して不真面目であり続けるジェイコブの立場といった主人公に直接的に関わる事柄であり、有名無名の数多くの人物が登場する本作の物語世界のごく限定された側面が読まれてきたように思われる。
本発表は、『ジェイコブの部屋』を「教養小説」のパロディとして読むに際して、伝統的な教養小説においては主人公の成熟というメインプロットの脇役に留まっていた人物たちの意識や感情が精緻に描写されている点に着目する。具体的には、母ベティの結婚を巡る葛藤、ハンディを抱える自身を「文明の囚人 civilization’s prisoner」と考えるバーフット夫人、自然に溶けあう感覚のうちに信仰を失いかけるジャーヴィス夫人、大英図書館で資料収集に励むフェミニストのジュリアなどの人物たちだ。これらの女性登場人物たちはジェイコブと直接かかわるクララ、フロリンダ、サンドラと比して目立たないように思われるが、彼女たちの内的な声を通じて、主人公のジェイコブには見えていない様々な社会的不和が書き込まれているのだ。こうした構造は本作の物語の時間性とも関連づけられる。作中には偉大な男性たちの「偉人伝」としての歴史というトマス・カーライル的な歴史観への言及があり、本作はジェイコブの生涯の時空間を描く点で伝記のような通時的構造をもつように見える。しかし、先述した人物たちの意識と感情の記述、さらにジェイコブの父をはじめとする死者、18世紀や古代ギリシアといった歴史的過去への言及により、一個人の生から死に至るまでの成長に焦点を当てた伝記という形式が持つ目的論的な語りと時間の構造化は宙吊りにされている。この特徴は、ジェルジ・ルカーチやミハイル・バフチンなどの「教養小説」の古典的議論において、主人公の人生に即した「伝記」としての物語構造がこのジャンルの特権的な特徴とされてきたことを考えるならば、本作の最大の特徴として読み直すことができる。
発表は『ジェイコブの部屋』の精読を中心に進めるが、モダニズム文学における「若さ」や「成長」といった主題を巡る研究動向や、そのなかでの『船出』(The Voyage Out)をはじめとするウルフの初期作品の評価についても検討する。発表者としては、ウルフ作品の非人間中心主義的な時間意識に関心があり、そうした大きな問題設定のもとでの『ジェイコブの部屋』の位置付けも論じられればと考えている。
研究発表2
黙殺される自己——『灯台へ』と『幕間』における絵画の眼差し
広島大学大学院博士後期課程 松﨑 翔斗
現在、私が関心を持つのはウルフ作品における登場人物の「自己を消去する態度」である。本発表では、絵画と主体(描く者/見る者)の関係に焦点を当て、登場人物の「自己を消去する態度」を考察したい。具体的には、『灯台へ』(1927)においてリリー・ブリスコウが描く絵と『幕間』(1939)に描かれるトマス・ゲインズバラによる、ある夫人の肖像画を例として分析する。分析の際は、絵画と主体の関係を読み解く補助線として、ジャック・ラカンのセミネールXI『精神分析の四基本概念』(1964)所収の「対象aとしての眼差しについて」を援用する。
ラカンのセミネール「対象aとしての眼差しについて」の題目にうかがえるように、私は両作品における絵画がもつ対象aとしての眼差しに着目したい。ラカンによれば、絵を前にした主体は、絵の眼差しによって消し去られてしまう。この絵を前にして消し去られてしまう状態は、キャンバスを前に自己を失ったようなリリーのトランス状態のそれに見出すことができる。実際、リリーは絵を描くときに「目に浮かぶまぶしい光/眼差し」 (a glare in the eye) を感知しており、その眼差しのもとに自己が消去される感覚を持っている。それは「考えることも感じることもできなくなると[. . .]、人(主体)はどこにあるのか」(‘if one can neither think nor feel, . . . , where is one?’)と彼女が不思議に思うところに読める。一方、自己が消去されるこの瞬間は、描きたいもの(‘Mrs Ramsay’あるいは‘vision’、ひいては‘it’)が描ける瞬間でもある(‘Let it come, . . . , if it will come’)。ここには、絵画の眼差しのもとに自己が消去されている状態こそが創作活動に密接につながっているというリリーの絵画論、あるいは、オートマティスムのようなものを想起させるリリーの絵画論が浮上してくるのではないか。
一方で、絵画と主体の消去を如実に描いていると思われるのは、『幕間』である。この作品にはゲインズバラが描いたらしい夫人の肖像画がオリヴァー家の一室に登場する。この肖像画を見る者は、部屋の空虚さとも相まって、なぜだか言葉を失ってしまう(‘Empty, empty, empty; silent, silent, silent’)。言い換えれば、絵に黙殺されてしまう。なぜ、夫人の肖像画は見る者に沈黙をもたらしてしまうのだろうか。この問いにたいするひとつの答えとして、ラカンが指摘するような絵画がもつ眼差し、すなわち捉えることのできない対象aとの遭遇を提示してみたい。
以上のように、この二作品は「絵画と自己の消去」をひとつのキーワードとして読解することができるのではないか。つまり、キャンバスの前に消去されるリリー(描く者)と肖像画の前に黙殺されてしまう登場人物(見る者)を指摘することができるのではないか。したがって、本発表では、このような絵画と主体の関係性をラカンの「対象aとしての眼差しについて」を手掛かりに分析し、登場人物の欲望の在り処やリリーの絵画論を読み解きつつ、自己を消去する例としての絵画を提示してみたい。
研究発表3
家族と“Strangers”——The Yearsにおける「系譜学的家族」のクィアな組み替え
東京大学大学院修士課程 栁澤 彩華
『歳月』(1937)は、1880年から1930年代半ばまでパジター家とその縁続きの2つの家族の歴史を辿った小説であり、少なからぬ先行研究が「家族」のテーマに注目してきた。Zwerdling(1986)がこの小説にウルフの家父長制家族に対するアンビヴァレントな感情を見出した一方で、Marcus(1987)はフェミニズムの観点からこの作品の典型的な家族年代記との違いを強調し、結末の「夜明け」を家父長制崩壊の象徴と解釈した。Saariluoma (1999)も、伝統的家族小説に不可欠な出来事(結婚、出産、死)を描かないテクストの形式に着目し、家父長制家族のイデオロギー的基盤を破壊する「反-家族小説」であると読解した。こうした先行研究では、ウルフが伝統的ジャンルや形式を利用しつつ脱臼させることで、家父長制を批判した点が強調されてきた。しかしながら、伝統的家族に対する「抵抗」やその「解体」は強調されてきた一方で、この小説が模索する家父長制へのオルタナティヴについてはまだそこまで考察されていない。
そこで本発表では、「系譜学」という観点を導入し、世代や生殖、再生産といった通時性から「家族」を広義に捉え直し、そのクィアな組み替えがこの小説で模索されるさまを検討したい。そもそも「系譜学genealogy」とは生殖、血縁を基盤にした人間のつながりを意味する言葉である。Tobin(1979)は、伝統的には、直線的な時間感覚や家父長制は虚構的に構築される「系譜学的原理 genealogical imperative」——「起源」や先行した存在に特権を与え、出来事や人々を垂直的な階層に秩序付ける原理——に基づいてきたと指摘し、それが古典的リアリズム小説のプロットをも規定していたと論じた。Tobinによればモダニズム小説は直線的ナラティヴの撹乱によって系譜学を解体するものと位置付けられるが、近年のクィア批評はこの議論を発展的に継承して、「解体」のみに終わらない可能性を模索している。McCrea(2011)の議論によれば、伝統的物語の結婚プロットは、家族の外部の「よそ者 strangers」とのクィアな〈出会い〉を、最終的に結婚という形で家族の「親密さ」に変容させることで、逆説的にもクィアネスへの構造的依存を隠蔽していた。そのうえでMcCreaは、ディケンズやドイルの作品において「よそ者」が家族になる過渡的存在ではなく、「別個の異なる種類の絆」を暗示するパターンを指摘し、ジョイスやプルーストのモダニズム小説もまた同様の構造を発展させていると分析する。これらの作品では、「よそ者」のクィアネスは伝統的な系譜学的プロットには回収されず、オルタナティヴな「つながりの形式」を作品の構造にもたらしているのである。
以上の理論的枠組みを踏まえて本発表では、『歳月』における「よそ者」との出会いの瞬間に焦点をあてたい。プロットの中心はパジター一族の日常だが、第一章の1880年からすでに大学寮でのエドワードのホモソーシャルな関係や、他の女性たちへのキティのホモエロティックな感情など、系譜学的プロットには統合不可能な「よそ者」との出会いが細部に描きこまれている。この小説はまた、親子関係にとどまらない多様な親族関係(叔父、伯母、いとこ)——Sedgwick (1993)によれば、「父の名」の継承という強固な系譜学的意識に代わる偶発性や差異に満ちた関係性——にも焦点を合わせている。さらに言えば、物語が進むにつれて独身女性であるエリナやサラの身体は、家族から“a queer old bird”や“great ape”と動物に喩えられるようなクィアネスを帯びていく。パジター家の女性たちもまた、家族的親密圏におさまらない「よそ者」へと変化する可能性が示されているのではないだろうか。
このような観点から本発表では、多様な「よそ者」に焦点をあてることで、テクストがどのように支配的=家父長制的系譜学を脱臼させ、同時にオルタナティヴな「つながりの形式」を模索しているのかを検討したい。
研究発表4
『めぐりあう時間たち』とフィリップ・グラスによる映画音楽
都留文科大学特任准教授 小室 龍之介
2022年はマイケル・カニンガムの『めぐりあう時間たち』が映画化されてちょうど20年目にあたる。これを祝して、この映画のサウンドトラックがLPで発売されたり、メトロポリタン・オペラによる『めぐりあう時間たち』のオペラ作品の上演も控えていたりする(このオペラの映像作品が日本でも来年公開の予定)。このように、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』はリメイクするにはうってつけの材料のようで、1998年にはヴァネッサ・レッドグレイブがクラリッサ役を演じた映画『ダロウェイ夫人』だけでなくカニンガムの小説『めぐりあう時間たち』も発表された。翌年の1999年にはロビン・リピンコットの『ダロウェイ氏』までもが登場した。
2002年に上映された映画『めぐりあう時間たち』は、スティーブン・ダルドリー(監督)、ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ(出演)が起用され、日本でも話題性はあったのだろう。だが、イギリス現代演劇界で数十年と最前線に立ってきたデイヴィッド・ヘア(脚本)への注目度が日本では低かったように、この映画音楽やその担当者への言及もほぼ皆無だったようにも思える。
映画『めぐりあう時間たち』の映画音楽担当者は、1960年以降のアメリカ現代作曲界の一大潮流であったミニマリズム音楽の代表的作曲家であるフィリップ・グラスである。現在ではスティーヴ・ライヒと並びキャノン化され、現代音楽の教科書的記述には必ず登場するグラス。彼の作曲技法にある最大の特徴は執拗なリフ(短い反復フレーズ)にあり、このため、グラスのスコアは幾何学的な構造を有している。彼の代表作の一つである舞台作品『浜辺のアインシュタイン』の音楽に多彩な表情を聴きとることができるとすれば、それは反復される短いフレーズのテンポやボリュームが大胆に操られるからに他ならない。が、3時間30分ほどの舞台上演時間全体を覆いつくすのは、グラスがミニマリスト作曲家たるゆえんである技巧、数パターンしかないフレーズをしつこく反復させる手法である。『めぐりあう時間たち』のサウンドトラックにも、ミニマリスト的な技法が駆使されているのは言うまでもない。
『めぐりあう時間たち』では『ダロウェイ夫人』が反復され、かつ、両テクストとも映画作品として反復されたこの興味深い現象は、ある意味においてこれらのテクストや映画を分析する上で核心を突いているのかもしれない。そのある意味とは、語りにおける時制の使用法やテーマから、『ダロウェイ夫人』における「反復」にまつわる深い洞察をヒリス・ミラーが『小説と反復』において提示したことである。『ダロウェイ夫人』における反復に加え、『めぐりあう時間たち』に登場する3人の女性たちもまた、ウルフやクラリッサの反復を生きることを鑑みれば、映画音楽担当がグラスであることの必然性がこれ以上明白になることもなかろう。そこで、本発表ではヒリス・ミラーの顰みにならい、『めぐりあう時間たち』のテクストや映画を、そのサウンドトラックをベースに「反復」という観点から考察したい。