11月例会のご案内

2025年度11月例会は、11月16日(日)東京学芸大学にて下記の要領で開催いたします。

第131回例会(2025年11月例会)

日時
2025年11月16日(日)
14:00~17:30
会場
東京学芸大学S105教室(中央2号館南講義棟)
交通アクセス
https://www.u-gakugei.ac.jp/access/
研究発表
 
I. 個人研究発表 14:00~15:00
「Katherine Mansfield の “The Fly” における残酷さの想起 —— 追悼文化、死体の傷、非人間性」
司会:相愛大学教授 石川玲子
発表者:早稲田大学文学研究科博士課程 長南直弥
II. グループ発表 15:15~17:15
「(Early) Modernism とインド・太平洋の空間?
――ポストコロニアリズム研究以降の The New Age の読み換えに向けて」
司会・発表者:福島大学教授 高田英和
発表者:東京学芸大学教授 大田信良
(*共同発表者:東京学芸大学非常勤講師 大谷伴子)
閉会の辞:17:15~17:30
九州大学教授 鵜飼信光
懇親会:18:00~20:00
パナス(JR国分寺駅前)(インド料理店、飲み放題のコース)
https://tabelog.com/tokyo/A1325/A132502/13016063/
会費 学生4,000円、学生以外5,000円

11月例会の発表概要

【個人研究発表概要】
Katherine Mansfield の“The Fly”における残酷さの想起 —— 追悼文化、死体の傷、非人間性
Remembrance of Cruelty in Katherine Mansfield’s “The Fly”:
Commemorative Culture, Wounded Corpses, and the Inhuman

長南直弥

 本発表は、Katherine Mansfield の後期短編 “The Fly” (1922) が、第一次世界大戦後の公的な追悼文化を批判し、国家が戦場の兵士に課した残酷さを想起する倫理を示した作品であると読解する。“The Fly” は、息子に死なれた父親の心理を通して戦死者追悼の問題を描いた作品として大戦文学研究において関心を集めてきた。六年前に息子を戦争で亡くした老年の社長は、友人の話からベルギーの集団墓地にある息子の墓の存在を思い出し、呆然とするうち偶然見つけた机の上の蝿に何度もインクを垂らして殺してしまう。1990年代のフェミニスト批評以降、社長の蝿殺しは家父長制と結びついた大戦の世代間暴力を象徴するものと読解されてきた。社長は大戦を主導した家父長的権力の典型であり、蝿は戦場へ送り出され犠牲となった若い世代、すなわち社長の息子の代理とされる。作品は戦後にも温存される権威的男性の暴力性を暴き、戦死者の追悼が失敗に陥るさまを描いたと論じられてきた。

 一方で、本発表は、蝿殺しが、戦後の追悼文化が隠蔽した死にゆく体の物質性を社長が感受する過程であると論じる。〈モダニズムの死体〉を歴史化する議論を展開した David Sherman は、大戦を背景に書かれた Wilfred Owenの詩やVirginia WoolfのJacob’s Room (1922) が、追悼を管理し死体への倫理的義務に介入する国家的体制を描きつつそれに対する抵抗を表現していると論じる。この点を踏まえれば、“The Fly” にも公的な追悼文化の反映とそこからの離反を同時に読み取りうる。蝿と息子は確かに殺される点で同じであるが、社長の思い描く “unblemished” な息子の体と、インクで何度も “blot” をつけられる蝿の体との間には明白な対照性がある (478, 479)。作品中盤、社長が墓に眠る息子を “lying unchanged, unblemished in his uniform, asleep for ever” という姿で想像していると語られるが (479) 、これは神への生贄は “without blemish” であるべきだと定めた旧約聖書の記述と符合する。史料研究が示す通り、大戦の公的な戦死者表象ではキリスト教の聖なる犠牲の理念が重用されたのであり、社長はその理念を内面化している。一方で作品後半、社長は蝿が体を洗い終えるたび、強迫神経症的に何度もインクを体に垂らし続ける。永続する神聖な体のイメージを保存し続けてきた社長は、蝿を介して汚され、傷つき、死にゆく体を見出し、生命が物質化されていく過渡的な傷のリアリティを感受するに至るのだ。

 また、本発表は、蝿という非人間の死が、追悼文化に潜在する残酷さを間接的に想起させていると主張する。社長は蝿があたかも若者であるかのように激励し痛みを想像するが、最後には殺してしまう。そのため社長の行為には、修辞上、非人間を殺す暴力と人間を殺す暴力が交錯している。表面上児戯的な虐めにすぎない社長の蝿殺しは、蝿が擬人化されることで、人間の痛みを知りつつ増大させるという非人間的=非人道的 (inhuman) な残酷さを浮かび上がらせる。作品は戦死者を人間以上の聖なる存在へと転換する国家的戦略を描きつつも、それが隠蔽する戦場の死の非人道的な残酷さが社長の行為を通して現実化されるように仕掛けているのだ。非人間の死が人間の倫理を問い直すという過程は、戦死した弟の体に見立てられたベリーを食すイメージが描かれた追悼詩 “To L. H. B.” (1915) や、“Prelude” (1918) や “At the Bay” (1920) における動植物の死の描写にも見出せる。近年のポストヒューマン論を踏まえた後期Mansfieldの読解は、死体との情緒的関係を人間的倫理に限定するShermanの〈モダニズムの死体〉論を生産的に修正するはずだ。

 以上の通り本発表は、“The Fly” が追悼の失敗ではなく、公的な追悼文化に批判的に介入する作品であると論じる。Mansfield は、戦死者の想起を国家的な象徴作用から引き離し、死体に宿る傷のリアリティを感受し、非人間的な残酷さを想起する倫理的過程として捉え直そうとしていたのだ。

Sherman, David. In a Strange Room: Modernism’s Corpses and Mortal Obligation. Oxford UP, 2014.
Mansfield, Katherine. The Collected Fiction of Katherine Mansfield. Edited by Gerri Kimber, Vincent O’Sullivan. vol. 2, Edinburgh UP, 2012.



【グループ発表概要】
(Early) Modernismとインド・太平洋の空間?
――ポストコロニアリズム研究以降のThe New Ageの読み換えに向けて
(Early) Modernism and the Indo-Pacific?
Towards Re-reading The New Age After Postcolonialism Studies

司会・発表者:福島大学教授 高田英和
発表者:東京学芸大学教授 大田信良
(*共同発表者:東京学芸大学非常勤講師 大谷伴子)

 かつて、大衆消費文化との関係性において、英国モダニズムをとらえなおそうとする研究の動きがあった。それは、18世紀末の近代化から100年近くたち新たに台頭した大衆化の時代と呼ばれるものの歴史性において。大英帝国の衰退の兆しが漠然とではあれ感じられ始めた20世紀初めの英国の文学を文化と切り離すことなく論じようとしたものだった。その時に注目されたのは、たとえば、ひとつには、実験的で難解な文学を生産するモダニストたちのパトロンや投資の目的で収集されるスペシャルな豪華本・限定本だった。とはいえ、もうひとつ別の動きが同時にあったのであり、それが今回のグループ発表であらためてラディカルなかたちで再読してみようと試みるリトル・マガジンなかでもThe New Ageである。このような大衆化あるいは大衆消費文化は、英国モダニズムあるいはヴァージニア・ウルフの解釈にどのように接点が見いだされたのであったろうか。

 ゼロ年代にオンラインで発表されたと思われるScholesたちの集団的な研究は、ウルフの「1910年12月ころに人間性の変化が起こった」という陳述、あるいは、批評的言説を1910年前後に少なからざる衝撃を英国の文学界にあたえたリトル・マガジンの代表のひとつThe New Ageと結びつけることを、以下のような鋭くかつまた極めて巧妙ともいえるような語り口で、提案した。

We are all aware of Virginia Woolf’s hyperbolic assertion that “on or about December 1910 human character changed” (Woolf, 1988, 421), making the Edwardians obsolete and leaving the new Georgian writers to find their own way in a new world of disorder. The reality, as Woolf well understood, was more complicated. She was making a rhetorical point, and, above all, defending her own practice and that of other Bloomsbury artists and writers. But if we are really to understand modernism we need the complications as well as the powerful simplifications…They were always “on the left,” but it was a turbulent, volatile left, in which anarchism and authoritarianism rubbed shoulders, and politics mixed with art more deeply than in other places.( Scholes and Staff)1

周知のように、ウルフの批評的言説は、だれもが知っているエドワード朝とジョージ朝の世代的対立言い換えれば前者のマテリアリズムと後者のスピリチュアリズムという20世紀英国文学の歴史的見取り図に展開するものであり、それはまた、ジェンダーと人種(さらにはセクシュアリティ)の観点の導入をも要請したような初期モダニズムと盛期モダニズム(さらには後期モダニズムやミッドセンチュリー英国文学)といったモダニズム文学史の書き換えや再編制にかかわるものだった。Scholesたちの鋭い洞察によれば、しかし、ことはもう少し複雑だったのであり、自らを含むブルームズベリー・グループの芸術――レイモンド・ウィリアムズがずいぶん前に指摘した英国支配階級・中産階級の階級分派の一員としてのヴァージニア・ウルフ、つまり、下層中産階級を含むかもしれない大衆あるいは労働者階級とは差異化されるきわめて特殊で特権的な「知的貴族階級」とフェミニズムと英国帝国主義批判の身振りを示すそのリベラリズム――を弁護し正当化するレトリックを使用したウルフ自身もそれを十分承知していたことは間違いない、ということになるのだった。このような盛期モダニズムの重要な部分として制度化されたウルフとブルームズベリー・グループに対置され新たに再評価を試みられたのが、The New Ageにほかならなかった。なによりも、その左翼の政治性、言い換えれば、アナーキズムと独裁主義(共産主義・社会主義とファシズムの異形態?)との奇妙な親近性を有しながらまた同時に混淆しあうような左翼のポリティクス・政治文化と切り離すことができないような初期モダニズムの文学が注目された。

 本グループ発表は、こうした歴史的経緯やその後のリトル・マガジン研究の諸論点をふまえながらも、そうした政治文化を20世紀後半から21世紀現在にいたるグローバル化の時代において意味あるかたちで再読・再解釈するために、インド・太平洋の空間に注目し、実質的なThe New Age再読に向けて、20世紀のはじめ、10年代、その後の戦間期の諸テクストを取り上げる。ポストコロニアリズム研究以降ならびにグローバリゼーションとその終焉以降において、ある意味で「アフター西洋」の観点からThe New Ageの読み換えを本格的にはじめるために、このような作業はぜひとも必要なものではないだろうか。20世紀前半の英国リベラリズムの危機あるいはその死を、国内の政治・経済ならびに社会問題、および、インドやアイルランドなどの植民地・人種や国外の戦争・軍事・外交にかかわる問題だけでなく、ヨーロッパにとどまらず世界の諸地域で見られた共産主義とファシズムの対立、さまざまなナショナリズムの高まりその他の問題に結び付けるには、そして、それらに関する問いを自分事として考えるには、どうしたらいいだろうか。

 20世紀はじめの英国を代表し且つ表象するリトル・マガジンの一つとして挙げられる『ニュー・エイジ』、その時代にかかわるヴァージニア・ウルフの文学テクストおよび彼女の振る舞いは、どのような意義と可能性があったのだろうか。まずは、この点を、髙田の発表は、探究してみる。具体的に言うと、『ダロウェイ夫人』におけるピーター・ウォルシュの行動とセプティマス・ウォレン・スミスの死、そしてウルフの自死、それら3つの間には、アンチ・リベラルな世界、その可能性が存在していることを想像できる、否、想像する、ということが非常に重要になる。本発表のキー・フレーズは「つねに想像しろ!」となる。

 次の発表に移る前に、『ダロウェイ夫人』におけるピーターがインド帰りの男であることをふまえながら、1919年出版のウルフの長編小説第2作目『夜と昼』とインドの関係を、その歴史的コンテクストの表象レトリックにも気をつけながら、問題化することを、本共同発表を代表・代弁して大田が、補足説明として、提案する。インドで一財産築き上げた家系の娘のキャサリン・ヒルベリーと弁護士事務所で働きながら東洋とりわけインド行きを切望するレイフ・デナム二人の、帝国のアレゴリーではなく、ナショナルでドメスティックなロマンス喜劇のプロットを結局は前景化して祝祭的なエンディングを表象するにいたるこの小説、そして、そのナラティヴによって巧妙に周縁化され排除されるメアリー・ダチェットのさまざまフェミニストとしての活動・運動と思われるものを、われわれは大英帝国の変容の過程とどのように結び付け解釈したらいいのか、と。

 続く共同発表では、「1910年頃」の10・20年の前と後の時期にそれぞれに出版されたテクストを取り上げることにより、The New Age等の初期モダニズムといわれる諸テクストを読み換える作業を開始したい。まず、大田がJoseph ConradのLord Jim (1900)、Nostromo (1904)を、太平洋の空間において再解釈することを提案する。手始めに、主人公ジムの敵役であるジェントルマン・ブラウンの先行者として姿をあらわすオーストラリア西部の人間でチェスターという名の男と海鳥糞(guano)帝国のエピソードに注目することにより、Lord Jimの意味のある舞台が、マレーあるいはインドネシアだけでなく、西太平洋さらには南太平洋であることを論じたい。さらに、Nostromoもそのストーリーが南米の架空の国におきた政変・革命と近代化・近代資本主義世界への通時的移行の物語だけではない可能性を、グローバルな資本主義世界における地政学的地殻変動と国際政治の再編の歴史的過程と突き合わせることにより、示唆したい。続く大谷は、Virginia Woolfのミドルブラウ論を手掛かりにG. S. Fraserが概念規定した郊外家庭劇 (suburban domestic drama)との関係を、Somerset Maughamを媒介に読み直す試みを、進めていきたい。具体的には、WoolfのBetween the ActsとたとえばMaugham のThe Circle(『ひとめぐり』)を取り上げ、東洋帰りの男性キャラクターと英国の帝国主義の命運との関係を、グローバルなコンテクストにおいて解釈してみたい。

 最後に念のために言い添えておくなら、このグループ発表で探ってみたいのは、インドの空間にもグローバルな視線を向けて議論を展開する論考を含むModernist Communities across Cultures and Media. Edited by Caroline Pollentier and Sarah Wilson. Gainesville: UP of Florida, 2019.のような研究を志向するわけでは、必ずしも、ない。モダニストの作家たち・知識人たちが、異なるメディアを横断しながら結び合わせるパフォーマンスを通じて、個人的なものと集団的なものとの諸関係を、中心―周縁とは違ったやり方でとらえられた西洋と非西洋の文化関係とともに、再表象してコスモポリタンなコミュニティーのいくつかの形式を生み出したのか、こうしたモダニズム文学をメディアとグローバリゼーションの枠組みのなかで問題の中心にすえて研究することを、われわれ全員が、したいわけではない。われわれが探ってみたいのは、モダニズムさらにはポストモダニズムへの移行すらも超えた21世紀の現在とその未来、グローバリゼーションとその終焉以降を見すえたイングリッシュ・スタディーズの可能性である。

Works Cited
Ardis, Ann L. “Democracy and Modernism: The New Age under A. R. Orage (1907-22).” The Oxford Critical and Cultural History of Modernist Magazines. Vol. I. Britain and Ireland 1880-1955. Ed. Peter Brooker and Andrew Thacker. 2009. Oxford UP, 2013. 205-25.
Scholes, Robert, and Staff of the Modernist Journals Project. “General Introduction to The New Age 1907-1922.”

Notes
1:ゼロ年代のリトル・マガジン研究については、以下の論考における示唆も参照のこと。
Class and regional politics also need to be taken into account in analyzing The New Age’s readership during Orage’s editorship, a readership that included both ‘the leading literary and political figures of the day’ and the socialist autodidacts and left-leaning graduates of Mechanics Institutes, working men’s colleges, teacher-training colleges, extension lecture programs, and provincial universities who constituted its rank-and-file readership .(Ardis 210)

このページのTOPに戻る