7月例会のご案内

第133回例会(2026年7月例会)

日時
2026年7月26日(日)
14:00~17:00 例会
17:30~19:30 懇親会(会場:「トラットリアクラフト」)
会場
大妻女子大学千代田キャンパス 本館 E452室
交通アクセス
千代田キャンパス アクセスマップ
研究発表
 
1. 鈴木孫和氏(成蹊大学文学部専任講師)
ジェニーはいま、だれに物語るのか――レベッカ・ウェスト『兵士の帰還』の外傷的語り
(To Whom is Jenny Talking?: The Traumatic Present of Rebecca West’s The Return of the Soldier
2. 共同発表「ロンドンとケア」(London and Care)
井上美雪氏(東洋大学准教授)
ケアの引き受けをめぐる空間と資本:アラン・ベネットの『バンで暮らすレイディ』
(Space and Capital in the Provision of Care: Alan Bennett’s The Lady in the Van
関野佳苗氏(岩手大学講師)
「郊外」で生まれる「先祖返り」:ドリス・レッシングの『破壊者ベンの誕生』
(A Throwback in Suburbia: Doris Lessing’s The Fifth Child

7月例会の発表概要

研究発表1
ジェニーはいま、だれに物語るのか――レベッカ・ウェスト『兵士の帰還』の外傷的語り

成蹊大学文学部専任講師 鈴木 孫和

 1918年5月、月の新刊であるレベッカ・ウェストの『兵士の帰還』(The Return of the Soldier, 1918)を姉ヴァネッサ・ベルの誕生日に送ろうと思っていたヴァージニア・ウルフは考えを変えた。新しいプレゼントは「レベッカ・ウェストより少しはまし」だと言ってはばからないウルフは、読む前から『兵士の帰還』にはあまり期待していなかったらしい。しかも、ウルフの日記と書簡を見る限り、この評価は結局覆ることはなかったようである。このようなウェスト初の小説の評価は、作家の再評価の始まった 1980 年代以後、2000 年代に入ったころまで一般的だったと言われる。だが『兵士の帰還』は、いち早く精神分析とシェルショックを物語に取り入れた歴史的先見性以外さして特筆するところのない作品というわけではない。このようなまぐれ当たりの「習作」扱いは、本作の豊かな批判性と精緻な心理描写を見逃した解釈であると言わざるを得ないだろう。本作は、階級制度とジェンダーの固定観念をアイロニカルに検討すると同時に、医療の倫理に関わる問題――「治療」は常に正しいことと言えるのか、「症例」の記録は誰のものなのか、など――にも批判的な洞察を提示している。また、ウェストのテクストは精緻に作りこまれた語り手ジェニーの精神の表象でもある。そこで本発表では、ジェニーのトラウマ的経験が最終的に帰還兵クリスの治療に帰結したという画期的な読みを2005年に提示したワイアット・ボニコフキの論文を足掛かりに、『兵士の帰還』におけるジェニーの語りを再読してみたい。ボニコフスキは、物語の展開する「現在」の読みとして一貫性のある優れた議論を提示したといえるが、ジェニーが物語を紡ぐ「いま」がそれとは別の時点として存在することを明確に意識できていない点で、わずかに心的外傷の問題を論じ切れていないように思われる。本発表は、遠藤不比人『情動的唯物論――モダニズム/精神分析/脱構築』(小鳥遊書房、2025)を参照することでこの穴を埋めることを試みる。同書のエリザベス・ボウエン論が強調する心的外傷の無媒介性および表象不可能性が、語りの即時性、反復強迫、語り得ないものの存在を通してテクストの表面に露出していることが明らかになれば、ジェニーは外傷の記憶を過去の物語として提示しているのではなく、今なおその経験の回帰に苛まれているのだという解釈が手に入るはずである。こうした読みは『兵士の帰還』を「いま」を生きる私たちに語りかけるテクストにするのだということも示唆しつつ、以上のように、本発表はウェスト初の小説の再評価を試みる。

 本発表は、2025年12月に白水社より出版された『兵士の帰還』(鈴木孫和、小山太一訳)の翻訳過程に得た着想を、『情動的唯物論』を参照することによって発展させたものである。質疑応答の時間は発表内容の検討に限定しない議論の場としたい。ただし、ウェストの作家としてのキャリアは長く、著作は多岐にわたるうえ、思想的立場も安易な一般化を受け付けないようである。その点、質疑応答は『兵士の帰還』のほか、「終わらない結婚生活」(“Indissoluble Matrimony,” 1914))などの初期の著作を中心に、ウェストという作家とその作品についてさらに掘り下げるものとみなしていただけるとたいへん有難い。女性参政権論者、フェビアン協会員として作家キャリアをスタートし、初のフィクション作品が『ブラスト』(Blast)第 1 号に掲載されたウェストであれば、これら初期の仕事に限定しても多くの論点を見出すことができると思われる。なお、The Return of the Soldier の英米初版には大小数多くの差異がある。本発表では英国初版を底本とした Broadview Editions 版(2010)を用いる。“Indissoluble Matrimony”のテクストは、Blast 第 1号に掲載されているほか、Jane Marcus 編 The Young Rebecca: Writings of Rebecca West 1911-17(1982)、Lawrence Rainey 編 Modernism: An Anthology(2005)にも収録されている。



研究発表2(共同発表)
ロンドンとケア

東洋大学准教授 井上 美雪
岩手大学講師 関野 佳苗

 本共同発表は、Alan Bennett の The Lady in the Van(連載版 1989、映画版 2015)およびDoris Lessingの The Fifth Child(1988)におけるケアを分析することを目的としている。両作品は、ロンドンやロンドン郊外に住むミドルクラスの白人イギリス人を主人公とする小説で、ケアが主題となっており、いずれも1960年代から1990年代の終わりまでを描いたものであるが、ともに映画化や続編によりケアの問題が語り直されるという共通点も持つ。

 本共同発表が上記作品において着目したいのは、ロンドンでは、ケアは、どこで、いかに引き受けられ、いかなる資本で支えられ、どこに繋がっていくのかという問題である。タイトルロールである老女と子どものケアの問題を考える際に、都市空間の階級的再編を批判するジェントリフィケーション研究の視点を導入し、彼らを 20 世紀後半のロンドンから排除された者たちととらえたうえで、彼らのケアの引き受けをめぐる問題を考えたい。ジェントリフィケーションという言葉は、Ruth Glass が London: Aspects of Change(1964)において労働者階級の立ち退きを伴う都市の階級的変容を指して作った語である。だが、今では 60 年代のロンドンの特定の場所での現象を指す限定的な語としての使用から発展し、ハーヴェイやルフェーブルらの資本の循環に関する議論を経由して、世界規模で進展する資本主義に対抗するため、都市を巡るポリティカルエコノミーが生み出す緊張関係や権力の不均衡を指摘するための鍵語となっている。ただ、この語をケアの分析に用いずとも、すでにケア研究においては政治的イデオロギー、資本、不正義の観点からの分析はなされている。それでもなお本共同発表がケアを考える際にロンドンという場所に着目し、ジェントリフィケーションという語を一つの出発点とするのは、作品中におけるケアが、場所と資本の循環に絡む問題として時間的にも空間的にも拡張して描かれることで、ケアに関わる個人の責任感や罪悪感がその空間に空想的に回収され浄化されていく過程、そして時にそれが拒まれる過程に目を向け、そうした過程そのものがいかに構築されているかを確認したいからである。

発表2-①(井上)
ケアの引き受けをめぐる空間と資本:アラン・ベネットの『バンで暮らすレイディ』

 井上が扱うベネットの The Lady in the Van は、当初は London Review of Books に 1989 年に日記形式で掲載された。これはベネットが、走行不能なバンで暮らす路上生活者のミス・シェパードに自宅の庭を開放し、1989 年に彼女が亡くなるまで交流を続けた記録である。この日記に付した短いイントロダクションにおいてベネットは、ジェントリフィケーションの波に乗った自分とそれに対する罪の意識を記している。ベネットは、「今どきのジェントリファイアーが持たないことで有名な罪の意識」(52)が当時の自分にはあり、この罪の意識が自分の社会的地位と社会的義務の間にギャップを生じさせたのだと認識し、「このギャップの中にしか…ミス・シェパードが住める場所はなかったのだ」(52)と述べる。

 日記版がその舞台をベネットの居住区に限定し、当時の政治経済状況下での両者の交流を描写するのに対し、2015 年の映画版では、教育を受け社会的経済的に成功してロンドンで皆に憧憬される地区に住みながらも未熟な男の子として描かれていたベネットが、彼女との交流を通して成長し自己を統一する教養小説として物語化されている。その際に、連載版にはなかった「ケア」という語が第三者によって両者の関係を表すのに用いられるが、ベネットもミス・シェパードもケアと表現されることを拒否する。さらに映画版では、ベネットの実の母の介護の問題や、ミス・シェパードが亡くなる前日に行ったデイ・センターでのケアの様子が追加され、ケアが資本を支え、同時に資本がケア労働を―おそらく海外からも―呼び込み支える循環が描き出されている。

 本発表では、両版の違いに着目しつつ、ケアという言葉がもつ緊張関係とその変遷を、ジェントリフィケーション、階級、資本、教養小説の観点から読み解きたい。

発表2-②(関野)
「郊外」で生まれる「先祖返り」:ドリス・レッシングの『破壊者ベンの誕生』

 関野が扱うLessing の The Fifth Child は、ロンドン郊外の広い家が主な舞台となる。1960 年代中頃にオフィスパーティで運命的に出会ったハリエットとデイヴィッドは、「最低でも子供を 6 人」(14)という希望にみあった屋根裏付き 3 階建ての邸宅を購入する。ロンドンの通勤圏に位置するその家で瞬く間に 4 人の子供を授かり、彼らの家は長期の休みごとにそれぞれの親族が集まって団欒を楽しむ場所となる。しかし、幸せなロヴァット家の暮らしは 5 人目の子供の妊娠をきっかけに一変し、ベンと名付けられたその子供との生活に疲弊した家庭は崩壊していく。

 ハリエットの胎内にいたころから母親を苦しめ、生まれたのちもその暴力性によってほかの家族を脅かすベンは、「取り替え子(changeling)」(72)ではないかと疑われ、Goblin や Troll といった童話や民間伝承に登場する怪物的存在に例えられる。しかしその一方で、ハリエットはベンが何万年も前に存在した旧人類の性質がよみがえった「先祖返り (throwback)」(127)ではないかと考えるようになる。彼女は過去の人類の特質が現代人のなかに存在していて、それが何かの拍子に現れるのではないかと推測し、不良仲間とテレビを見るベンを見つめながら洞窟の前で火を囲んで暮らす旧石器時代の彼の姿を思い浮かべる(146)。

 本発表では、The Fifth Child において展開されるケアの物語を、階級都市として変貌を遂げるロンドンとの関係、言い換えればケアに追われる家族の物語が 1960 年代から 1980 年代のロンドン郊外を舞台としていること、に着目して分析を行いたい。作品の時代設定を踏まえれば、ベンの家族が暮らす町が、Glass が指摘したジェントリフィケーションの影響下にあったことは確かである。

 また本発表では、家族の幸せを脅かす存在として描かれるベンが、「先祖返り」と推測されることにも注目したい。白人中産階級の家庭でありながら大家族を望むハリエットとデイヴィッドのもとに生まれるベンは、「先祖返り」と推測される存在として成長、進歩、進化といった直線的な進歩史観を転覆させる。一度はロヴァット家から排除されたベンがハリエットによって家族のもとに戻り、再び排除されるプロットとあわせ、ケアの物語とロンドン郊外という空間に着目して分析することにより、レッシングのケアの物語におけるケアと排除の表裏一体性を指摘したい。

Works Cited
Bennett, Alan. The Lady in the Van: The Complete Edition. Faber and Faber and Profile Books, 2015.
Lessing, Doris. The Fifth Child. 1988. Harper Perennial, 2007.

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