2021年度
以下の要領で3月例会を行います。ふるってご参加ください。
第123回例会(2021年3月例会)
- 日時
- 2021年3月13日(土)
14:50~15:00 Zoomのセッションへの入室受付
(15時以降も随時入室受付いたします)
15:00~17:10 例会 - 場所
- オンライン
- 実施方式
- Zoomを用いたオンライン開催
セキュリティ等への配慮から、参加は事前登録制となっております。
※会員の方々は2021年2月に発行されたニューズレターをご参照のうえ、3月7日(日)までに事前登録ください。
※非会員の方も当日会員として参加可能です。
※3月8日(月)から3月12日(金)に例会専用ZoomのURLを事前登録者にメールにてご案内いたします。登録者以外にZoomのURLをお知らせいただくことはお控え下さい。
プログラム、特別招待発表・シンポジウム要旨は以下の通りです。
研究発表: 1.芦部美和子氏(一橋大学大学院博士後期課程) |
||
ヴァージニア・ウルフ“The Symbol”にみる山岳表象の可能性 (The Literary Representation of a High Mountain in Virginia Woolf’s “The Symbol”) |
||
2.松林和佳子氏(京都女子大学非常勤講師) | ||
E. M.フォースターの“The Eternal Moment”における現実の認識 (Recognition of the Real in E. M. Forster’s “The Eternal Moment”) |
||
3.矢口朱美氏(防衛医科大学校講師) | ||
フェミニズムのレトリック、あるいはレトリックとしてのフェミニズム――ヴァージニア・ウルフとフローレンス・ナイチンゲール (Rhetoric of Feminism, or Feminism as a Rhetoric: Virginia Woolf and Florence Nightingale) |
3月例会発表の概要
研究発表1
ヴァージニア・ウルフ “The Symbol” にみる山岳表象の可能性
一橋大学大学院博士後期課程 芦部 美和子
本発表は、ヴァージニア・ウルフが死の直前まで執筆を続けた短編“The Symbol” (1941) をとりあげ、ウルフが父レズリー・スティーヴンにゆかりの深い山をいかに表象しようとしたかについて山岳文学の観点から考察し、本作が提示した山岳表象の可能性を検討するものである。
本作は、山が何の象徴であるかという問いを、ひとりの英国人女性がアルプスの避暑地からバーミンガムの姉に宛てて書く手紙を通じて投げかける。山自体も、山を登るという行為も、遡れば聖書の時代から象徴的に描かれ、これをめぐるクリシェも数多く存在する。しかし、そのどれもが手紙を書く女性の「心の眼」に映るものを言い当てはしない。彼女の前に聳える山は、かつて母の死を望んだことに対する罪悪感を呼び起こし、山についての考えを巡らせているその眼前で山頂を目指す若者たちを一瞬にしてクレバスに飲み込んでしまう。
手紙から得られるわずかな情報を頼りに、読者もまた山が何の象徴なのか考えることを余儀なくされる。しかし、山頂で日毎にうつろう「虹色の光」のように、山が象徴するものもとらえどころがなく、その答えは最後まで示されることはない。本作がもともと“Inconclusion”というタイトルを持っていたことからもわかるように、“The Symbol”は結論を持たない物語なのだ。ゆえに、答えは読者の自由な解釈に委ねられるが、本発表では作中に漂う不穏な空気、死の気配とともに、各所に張り巡らされた近代アルピニズムの史実に注目する。これらが示唆するものは、英国の登山文化が内包する帝国主義的性質であり、近代登山史における黄金期 (1854-1865) を代表する登山家、レズリー・スティーヴンその人でもある。ウルフが父の生誕100年に際しThe Times紙に寄稿したエッセイ“Leslie Stephen, the Philosopher at Home: A Daughter’s Memories” (1932) の冒頭に「父の生涯の最盛期は、子供たちが成長期になるまでに終わっていた」とあるように、スティーヴンはその「最盛期」において数々の初登頂を遂げ、英国の登山文化の中心的存在である英国山岳会の会長をつとめた (1865-1868) 。さらに、登山文化の普及に大きく貢献した英国山岳会の会報誌Alpine Journalの編集を手がけ、彼の山岳/登山エッセイを集めたThe Playground of Europe (1871, 1894) は一世紀以上にわたり山岳文学の古典として読み継がれている。
スティーヴンはその山岳表象において経験主義を何よりも重視したが、ウルフは本作において山に登らずして山を描くことを試みる。これを考えるに当たり、まずはウルフの山に対するビジョンが1930年代を通じて“persistent vision”と呼ぶに至るまで高められ、“The Symbol”として結実するまでの過程を観察する。次に、本作に漂うスティーヴンの存在を確認したうえで、ウルフの山に対する関心が父への関心と相関関係にあることを、ウルフ晩年の父に対する精神的葛藤を手がかりに検討する。これらを踏まえ、本発表ではゲオルク・ジンメルの山岳表象論“Die Alpen” (1911) を補助線として、“The Symbol”を山岳文学の観点から再読する。ジンメルは高山のなかでも、“The Symbol”冒頭の山頂描写を彷彿とさせる万年雪の領域に崇高を見出し、彼の地が言葉と形を超越した領域であること、つまりその表象不可能性を主張する。これに従えば、手紙を書く女性がその手からペンを落とし、山が象徴するものを言葉にできないまま手紙を結ぶ結末は、決してウルフの作家としての敗北を意味するわけではない。なぜなら、言語化できないことこそが高峰の特質だからである。かつてスティーヴンが牽引した山岳文学において、ウルフは父とは異なるアプローチで山岳表象の可能性を模索し、提示しえたことを、本発表を通じて明らかにしたい。
研究発表2
E. M. Forsterの“The Eternal Moment”における現実の認識
京都女子大学非常勤講師 松林 和佳子
本発表では、1904年に執筆されたE. M. Forsterの短編小説“The Eternal Moment”を取り上げる。1947年に出版された自選短編集には、Forsterが第一次世界大戦以前に執筆した短編小説が12編収録されているが、そのうち「コロノスからの道」と「永遠の瞬間」だけが表面的にはファンタジーとは考えにくく、幻想的な雰囲気を持つ他の短編小説とは一線を画している。特に「永遠の瞬間」は、現実世界を生きる登場人物の葛藤や心理がていねいに描き込まれているため、ファンタジー色の濃いそれ以前の短編小説にはなかった深みがあり、後の長編小説への橋渡しになる作品として高く評価されている。
「永遠の瞬間」では、これまでの幻想的な短編小説に見られたような超自然的存在を仄めかす描写はほぼ存在しない。しかし、過去の記憶の中に、人生の拠り所となるようなある特別な瞬間、つまり“永遠の瞬間”を探し求める主人公Miss Rabyの物語は、現世の時間の束縛から解き放たれる可能性を追求した物語とも解釈できる。Miss Rabyは“永遠の瞬間”に出会うことによって、これまでの主人公と同じように、現実とは次元の異なる世界への入り口に立ったとも言えるだろう。「永遠の瞬間」は、Forsterの初期のファンタジーとは全く性質を異にしているように思われるが、Miss Rabyが発見する“永遠の瞬間”について詳しく分析してみると、その根底には、これまでの短編小説で描かれてきた不可思議な出来事と同様に、現実の隠れた側面を露呈するファンタジー的要素が潜んでいることに気付かされる。
しかし、初期のファンタジーにおける登場人物達とは違い、Miss Rabyは現実から解放されることはなく、物語は現実との対峙を強いられた彼女が自らの孤独を噛みしめる姿を提示して幕を閉じる。このエンディングは、救いのない印象を読者に与えるが、Miss Rabyが自分自身について新しい見解を得ることができたという点ではポジティブに捉えることもできる。Where Angels Fear to Tread のPhilipやCaroline、A Room with a ViewのLucyなど、この後発表される長編小説における主人公達が体験する様々な出会いと葛藤、それによってもたらされる精神的な成長を視野に入れると、Miss Rabyの“永遠の瞬間”をめぐる体験は、単に現実の過酷さを示しているだけではなく、さらに検討すべき別の意味があるように思われる。
本発表では、「永遠の瞬間」が短編小説から長編小説への橋渡し的存在となっていることを念頭に置き、前後の作品と比較しつつ、この物語の中で「現実」がどのように描かれているかを探っていきたい。具体的にはまずMiss Rabyが思い出の地であるVortaを再訪し、過去を振り返ることによって、人生において至高の瞬間であった“永遠の瞬間”の存在に気付く仕組みを分析する。そして、過去の中にある“永遠の瞬間”を見つけ出すことによって、Miss Rabyがありのままの現実を認識し、自己の目覚めの最初の一歩を踏み出していく姿を明らかにしたい。
「永遠の瞬間」は、現実とは次元の異なる不可思議な力が登場人物に現実からの解放をもたらす様を描くのではなく、主人公に現実とは次元の異なるヴィジョンを垣間見せることによって、より確かな現実の認識へと導いていく。この作品は、現実とは次元の異なるヴィジョンを物語に組み込むことによって、葛藤しながら現実を生きる人間の姿をより鮮明に浮上させようとする作者の新しい試みを示しているように思われる。
研究発表3
フェミニズムのレトリック、あるいはレトリックとしてのフェミニズム――ヴァージニア・ウルフとフローレンス・ナイチンゲール
防衛医科大学校講師 矢口 朱美
フェミニストという文脈で考える時、ウルフがフローレンス・ナイチンゲール(1820年~1910年)に時々言及する程度であったのは意外に思われることかもしれない。ウルフは『自分だけの部屋』(A Room of One’s Own)や『三ギニー』(Three Guineas) などのエッセイでナイチンゲールの名に触れている他、1910年代の日記や手紙の中で時折ナイチンゲールに、というよりはリットン・ストレイチーによる『ヴィクトリア朝偉人伝』(Eminent Victorians, 1918年)に所収された辛辣なナイチンゲール伝に触れ、これに好意的なコメントを残しているくらいである。
『自分だけの部屋』や『三ギニー』は、ウルフのフェミニズムの双璧をなすエッセイであり、しかも『三ギニー』は戦争と女性をめぐるエッセイであるから、そこでナイチンゲールの名が少なくとも挙げられるのは当然のことといえるかもしれない。しかしウルフはなぜ、ナイチンゲールの名に触れたり彼女の著作から短い引用を行なったりする以上に、彼女の活躍を詳しく扱うことをしなかったのであろうか。
本発表ではその理由を探ると同時に、ウルフは表立ってナイチンゲールのことを詳述してはいないものの、その名声と影響力を非常に強く意識し、自らの主張を展開する際のレトリックに用いた可能性について論じたいと思う。特に『自分だけの部屋』の書評に対し、ウルフが回答する形でつづられた文章「女性と余暇」(“Women and Leisure”)、および『自分だけの部屋』の後継プロジェクトの一環として行なわれた講演の要旨である「女性にとっての職業」(“Professions for Women”)にスポットをあて、そこに表れるウルフの言葉と、第一次世界大戦時の女性をめぐるプロパガンダを組み合わせて読むことで、ウルフによるフェミニズムのマニフェストと目されてきた言葉の裏に、ナイチンゲールの存在が密かに、しかし大きく関与していた可能性を探ってみたい。
さらに本発表では、「女性にとっての職業」が紆余曲折を経て『三ギニー』へと至る流れを意識し、その『三ギニー』の中でウルフが、ナイチンゲールの名や著作に言及する意味についても考察を行ないたい。昨年はナイチンゲール生誕200周年の節目にあたる年であったが、近年のナイチンゲール研究では、『看護覚え書き』(Notes on Nursing, 1859年)などのよく知られた実践的な著作のみならず、ナイチンゲールの哲学的・宗教的な著作に関する研究が進んでいる。「女性と余暇」においてウルフが引用した評論『カッサンドラ』(Cassandra, 1852年執筆)や、『三ギニー』でウルフが典拠を暗示している『宗教的真理を探究する者への思索の手引き』(Suggestions for Thought to Searchers After Religious Truth, 1860年私家出版。第2巻付録としてCassandraがついている)もまた、ナイチンゲールの非常に哲学的かつ宗教的な著作の一部である。これをウルフが知った乃至は読んだうえで、国家と並び称して宗教を批判する『三ギニー』においてナイチンゲールの名をウルフが用い、自らの主張をむしろ支える要素として利用したことの意味について考察を行ないたい。そうすることで、ウルフのフェミニズムの社会学的な側面に加え、そのレトリックについても光をあててみたいと思う。
なお本発表は、2021年1月時点で近日出版予定の日本看護協会出版会・ナイチンゲール生誕200年記念出版(「ナイチンゲールの越境」シリーズ)『ジェンダー——ナイチンゲールはフェミニストなのか(仮)』所収予定の論文「ナイチンゲールは「フェミニスト」だったのか——作家ヴァージニア・ウルフの視点から(仮)」に基づき、これを大幅に発展させた論考である。