日本ヴァージニア・ウルフ協会は、新型コロナウイルス感染の拡大、および厚生労働省からの「イベントの開催に関する国民の皆様へのメッセージ」を鑑み、3月14日(土)に京都女子大学にて開催を予定しておりました第121回例会(2020年3月例会)を中止することを決定いたしました。
本例会での発表については、7月に行います2020年7月例会でご発表いただくよう発表者のお三方にはお願いをしております。
ご登壇、ご参加を予定いただいた皆様、関係者の皆様には大変なご迷惑をおかけする事となり、申し訳ございませんが、皆様のご理解、ご協力を賜りますよう重ねてお願い申し上げます。
なお、今後の対応などにつきましては、会員の皆様には順次メール配信にてご案内致します。非会員のみなさまにおかれましては、お問い合わせ等がございましたら、日本ヴァージニア・ウルフ協会事務局(vwoolfsocietyjpn@gmail.com)までご連絡をいただければと存じます。
第121回例会(2020年3月例会)のお知らせ
以下の要領で3月例会を行います。懇親会は18時からです。ふるってご参加ください。
日時: 2020年3月14日(土) 15:00~17:30
場所: 京都女子大学 A 校舎 404 教室
*大学へのアクセス及び開催場所の詳細については下記のURLをご覧ください。
http://www.kyoto-wu.ac.jp/access/index.html
http://www.kyoto-wu.ac.jp/student/campus/map/index.html
研究発表: 1.楠田 ひかり(一橋大学大学院生) |
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The Years における ‘facts’ に基づく共同体観 (The Sense of Community Based on ‘Facts’ in The Years ) |
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2.豊田 麻美(奈良女子大学大学院生) | ||
『ダロウェイ夫人』に見るウルフのフェミニズムの萌芽 (The Germination of Woolf’s Feminist Perspective in Mrs. Dalloway ) |
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3.松林 和佳子(京都女子大学非常勤講師) | ||
E. M. フォースターの “The Eternal Moment” における現実の認識 (Recognition of the Real in E. M. Forster’s “The Eternal Moment”) |
3月例会の発表概要
研究発表1
The Years における ‘facts’ に基づく共同体観
一橋大学大学院生 楠田 ひかり
ヴァージニア・ウルフは、The Years (1937) 執筆中の1933年4月25日の日記において、‘facts’と‘vision’ を同等に描くこと、そしてそれらを組みあわせることによって「現代社会の全体(‘the whole of the present society’)」を提示しようという試みを表明している。本発表では、The Years において、例外的な経験である‘vision’から取るに足らない‘facts’へとウルフの執筆の主眼が移行したという文体上の変化を、時間描写と共同体観の変化として捉え、両者が密接に関連していることについて論じる。そして、そのことから、「現代社会の全体」を描くとはいかなることであるかについて、1930年代後半にウルフが‘facts’に焦点を当てたことを The Yearsという小説、および執筆時のウルフの階級横断的なまなざしを通して検討する。
本発表の出発点となるウルフの文体上の変化、すなわち‘vision’から‘facts’への焦点の移行は、The Years 以前と以降、より厳密にいえば1920年代の小説と、1930年代後半の小説における移行として捉えられる。また、この移行は、ジェド・エスティが論じるような 1920 年代から 1930 年代における空間表象の在り方の変化と並行して考えることができる。ウルフは1920年代の小説においては主として‘vision’の描出を探求し、The Years 以降、‘facts’の描出に主眼が移行した。そのような‘facts’に価値を見いだすまなざしは The Years においては、第 1 章 ‘1880’ の雨の風景描写における視点の用い方に表れている。この描写では超越的な観者が存在せず、雨に降られる無数の者・物たちと降りそそぐ雨は、どちらも視点であり注視点でもある。さらに、この文体上の変化は、時間性の変化の表れとして読むことができる。1920 年代までの風景描写では、風景のなかに観者自身が存在せず、一瞬知覚しうるような認識の彼方にあるものとして描かれていた。その一方で The Years の雨の風景描写は、観者がそのなかに存在するような全体性を描き出している。この描写においては、同じ時間軸上でひとしなみに雨に降られる者たち、すなわち、動物や植物、そして階級横 断的な人びとは、同等の存在として描かれる。あらゆる者に同時に広範囲に降りそそぐ雨が示唆しているように、誰に対しても等しく過ぎ去る、誰もが関与できる時間を基盤とした風景が示しているのは、例外的な人びとのみが知覚しうるような認識の彼方にある空間ではなく、明確に見ることのできる‘facts’に基づいた全体性である。
このような全体性への関心は、家父長的な家族に代わる共同体の提示というかたちでも表れている。そこでは家族は単に否定されるものではなく、従来の家父長制に基づく家族に代わる、より民主的な家族観が提 示される。そのような新たな「家族」とは、第 9 章 ‘1917’ で空襲後にエリナとニコラスが「私たち」の在り方を模索するなかで「新しい結合(‘new combination’)」として示唆しているように、必ずしも異性愛中心主 義的な結びつきを基軸にしたものではない。1937年に出版され、1880年から1930年代前半を描いた The Years において提示された代替的な「家族」の観念は、エスティが論じた、1920年代から1930年代後半に かけての帝国から島国へという「人類学的転回」の議論と重なるが、The Years はその議論には収まりきらないかたちで全体性を示している。そこで提示された「家族」は、エスティが Between the Acts の野外劇に見いだすような「集団儀式や公的象徴」によってではなく、‘facts’によって、あらゆる者がひとしなみに関与しうる共同体になりえている。
このように本発表では、The Years において提示された、あらゆる者が関与可能な‘facts’に基づいた全体性を検討することを通して、ウルフの作品、および1930年代後半における‘facts’の意味を再考したい。
研究発表2
『ダロウェイ夫人』に見るウルフのフェミニズムの萌芽
奈良女子大学大学院生 豊田 麻美
ヴァージニア・ウルフは、非政治的で審美的なモダニスト作家であるという従来のイメージは、過去 40 年間の研究で覆された。ウルフが同時代の社会問題に関心を持っていたことは、スティーブン・スペンダーの、「ウルフは1930年代の世界情勢を深く理解していたごく少数の英国人のひとりであった」という発言にも表れている。忘れてはならないのが、ウルフが社会問題について考える際、常にフェミニスト的視点を伴っていた点である。リサ・ロウが指摘しているように、ウルフは生涯にわたって、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」という「文化的構築物としての性(cultural construction of sex)」に関心を持っていた。この関心を発展させ、晩年にウルフは、歴史的に繁栄してきた男性と男性文化が、実は戦争などの社会問題の原因となる支配欲や暴力性といったメンタリティを生じさせると考えた。そのため、『三ギニー』(1938) では、戦争を防ぐには、女性の社会参画を通して社会システム全体を変えることを、目標として唱えている。
このような広い視野を持つ思想家としてのウルフの一面が発見される過程で、彼女の代表作『ダロウェイ夫人』(1925)も 1980 年代以降、政治小説として読み解かれてきた。アレックス・ズワードリングの論文をはじめとして、『ダロウェイ夫人』を、ウルフによる戦間期英国社会の諷刺とする解釈は、現在では主流の見方の一つとなっている。とりわけ、シェル・ショックに苦しんでいるセプティマス・スミスを通しての、第一次世界大戦とそれを率いた支配階級への批判という形で読まれることが多い。この解釈において、主人公クラリッサ・ダロウェイは、戦争の犠牲者で自殺をしたセプティマスに共感するものの、結局は、ウルフの社会風刺の対象である上流階級を代表する人物の一人として捉えられるのが一般的である。ペンギン版『ダロウェイ夫人』の序文でエレイン・ショーウォルターも、国会議員の妻であり社交界のホステスであるクラリッサを「反抗的な人物(a defiant figure)」として見ることは「批評家たちによって、強く反対されてきた」と概括している。
本発表は、『三ギニー』に代表されるウルフのフェミニズムと政治的見解を手がかりに、男性中心英国社会の中で、クラリッサが体現する価値観を改めて検討するものである。初に、クラリッサとその分身であるセプティマスが、英国家父長制社会から生じる精神面での支配を感じている点を考察する。精神面の支配に対するクラリッサの嫌悪感を見ていくことで、彼女が支配階級とは異なる価値観を持っていることを確認する。次に、作品内で軍事的で男らしい鈍感さが、間接的に「感じやすいこと(susceptibility)」と対比されている点に着目する。『ダロウェイ夫人』の舞台は、大戦終結から5年後のロンドンであるが、いまだに「勇気と忍耐(courage and endurance)」や「克己に満ちた態度(stoical bearing)」という軍人にふさわしい男らしい価値観が、男女に関係なく社会の中で理想的な規範となっている。それとは対照的に、クラリッサは、朝の爽やかな空気や花屋の甘美な空気を吸い込んでは感動し、活気あふれるロンドンの様子や色とりどりの花々を見ては楽しむ。作品内には、純然たる感覚が与える喜びを心から味わうクラリッサの様子が繰り返し描かれている。このような彼女の「感覚の喜び(sensual pleasure)」の追求は、stoical bearing を肯定する男性中心社会の規範とは対極にある。この点を分析することで、『ダロウェイ夫人』には『三ギニー』での主張といえる男性的価値基準への批判の形がすでに表れており、クラリッサは社会諷刺の対象にとどまらず、ウルフのフェミニスト的考えが反映された人物だということを明らかにしたい。
研究発表3
E. M. フォースターの “The Eternal Moment” における現実の認識
京都女子大学非常勤講師 松林 和佳子
本発表では、1904年に執筆されたE. M. フォースターの短編小説 “The Eternal Moment” を取り上げる。1947年に出版された自選短編集には、フォースターが第一次世界大戦以前に執筆した短編小説が12編収録されているが、そのうち「コロノスからの道」と「永遠の瞬間」だけが表面的にはファンタジーとは考えにくく、幻想的な雰囲気を持つ他の短編小説とは一線を画している。特に「永遠の瞬間」は、現実世界を生きる登場人物の葛藤や心理がていねいに描き込まれているため、ファンタジー色の濃いそれ以前の短編小説にはなかった深みがあり、後の長編小説への橋渡しになる作品として高く評価されている。「永遠の瞬間」では、これまでの幻想的な短編小説に見られたような超自然的存在を仄めかす描写はほぼ存在しない。しかし、過去の記憶の中に、人生の拠り所となるようなある特別な瞬間、つまり“永遠の瞬間”を探し求める主人公ミス・レイビーの物語は、現世の時間の束縛から解き放たれる可能性を追求した物語とも解釈できる。ミス・レイビーは“永遠の瞬間”に出会うことによって、これまでの主人公と同じように、現実とは次元の異なる世界への入り口に立ったとも言えるだろう。「永遠の瞬間」は、フォースターの初期のファンタジーとは全く性質を異にしているように思われるが、ミス・レイビーが発見する“永遠の瞬間”について詳しく分析してみると、その根底には、これまでの短編小説で描かれてきた不可思議な出来事と同様に、現実の隠れた側面を露呈するファンタジー的要素が潜んでいることに気付かされる。
しかし、初期のファンタジーにおける登場人物達とは違い、ミス・レイビーは現実から解放されることは なく、物語は現実との対峙を強いられた彼女が自らの孤独を噛みしめる姿を提示して幕を閉じる。このエンディングは、救いのない印象を読者に与えるが、ミス・レイビーが自分自身について新しい見解を得ること ができたという点ではポジティブに捉えることもできる。Where Angels Fear to Tread のフィリップやキャロライン、 A Room with a View のルーシーなど、この後発表される長編小説における主人公達が体験する様々な出会いと葛藤、それによってもたらされる精神的な成長を視野に入れると、ミス・レイビーの“永遠の瞬間”をめぐる体験は、単に現実の過酷さを示しているだけではなく、さらに検討すべき別の意味があるように思われる。
本発表では、「永遠の瞬間」が短編小説から長編小説への橋渡し的存在となっていることを念頭に置き、前後の作品と比較しつつ、この物語の中で「現実」がどのように描かれているかを探っていきたい。具体的にはまずミス・レイビーが思い出の地であるVortaを再訪し、過去を振り返ることによって、人生において至高の瞬間であった“永遠の瞬間”の存在に気付く仕組みを分析する。そして、過去の中にある“永遠の瞬間”を見つけ出すことによって、ミス・レイビーがありのままの現実を認識し、自己の目覚めの初の一歩を踏み出していく姿を明らかにしたい。 「永遠の瞬間」は、現実とは次元の異なる不可思議な力が登場人物に現実からの解放をもたらす様を描くのではなく、主人公に現実とは次元の異なるヴィジョンを垣間見せることによって、より確かな現実の認識へと導いていく。この作品は、現実とは次元の異なるヴィジョンを物語に組み込むことによって、葛藤しながら現実を生きる人間の姿をより鮮明に浮上させようとする作者の新しい試みを示しているように思われる。