第120回例会(2019年7月例会)に関するお知らせ

以下の要領で開催されます。

日時: 2019年7月6日(土) 15:00~17:30
場所: 早稲田大学早稲田キャンパス14号館 14-515教室

<発表 ワークショップ>
「カズオ・イシグロ研究——記憶、パブリック、グローバル」
司会麻生 えりか(青山学院大学教授)
講師三村 尚央 (千葉工業大学教授)
ディスカッサント松宮 園子(京都女子大学教授)

ワークショップ概要

講師 三村 尚央

 「公共の秘密」(The Public Secret)と題された論考でRobert EaglestonはKazuo Ishiguroの Never Let Me Go (2005)をホロコーストと関連づけて論じている(邦訳が拙編著『カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読む――ケアからホロコーストまで』に収録)。この論考はヨーロッパ 圏の文学作品をホロコーストを鍵語に読み解く彼の単著 The Broken Voice (2017)の第一章をなしているが、『わたしを離さないで』は臓器移植のために生み出されたクローンたちの息苦しくなるような運命をあつかっているものの、それでも彼らを形容するのに「ホロコースト」という語はいささか過剰であるように映る。本報告はこの論考を初に読んだときに私の感じたこのような違和感を出発点としている。架空の1990 年代イギリスを舞台とした、2005年に発表された作品の読解に、なぜわざわざ20世紀半ばのナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺を指す語を持ち込むのか。その要因としては、ホロコースト研究所所長を務めるほどにホロコースト研究に通暁しているというイーグルストン自身の個人的背景に加え、英米圏の文化批評においてホロコーストを分析用語として用いる批評的傾向が隆盛してきたことが挙げられる。そしてそのきっかけの一つとなったのが、イーグルストンも本書中で参照しているMichael Rothbergの Multidirectional Memory (2009)の出版であったように思われる。
 本報告では、「公共の秘密」論考におけるイシグロとホロコーストという(一見我田引水にさえ思われる)奇妙な取り合わせが喚起する批評的可能性を、積極的あるいは批判的に検証するとともに、このようなスタイルを概観することで、イギリス文学でも特異な場所を占めるといわれがちなイシグロを、個別の作家世界に閉じない広い文脈のなかで(たとえばポスト冷戦の文脈とともに)論じる可能性もフロアの皆さまと探れたらと期待している。

ディスカッサント 松宮 園子

 2000年代に相次いで発表された、Hannah Arendtの「凡庸な悪」の概念をKazuo Ishiguroの The Remains of the Day (1989) の執事 Stevensに適用し、彼とAdolph Eichmannの思考形態の共通点を指摘した政治哲学系の論考 (J. Peter Euben, “The Butler Did It” (2006); John McGowan, “Sufficient unto the Day: Reflections on Evil and Responsibility Prompted by Hannah Arendt and Kazuo Ishiguro” (2008)) を糸口に、イシグロ文学における悪に対する批評的関心の高まりについて考えてみたい。三村氏の議論を受け、公領域と私領域のあわいで滲むイシグロによる悪の表象の捉え難さを検証することで、ウルフの反戦思想との繋がりを見出すことの可能性もこのワークショップにおいて探っていければと願っている。

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