第120回例会(2019年7月例会)に関するお知らせ
第120回例会(2019年7月例会)は、7月の土曜日に東京で開催予定です。
2019年度の全国大会が、第4回日韓国際ヴァージニア・ウルフ学会という国際学会として、一橋大学韓国学研究センターと共同開催される予定のため、同大会での発表やシンポジウムはすべて英語で行われます。そのため本年度、本協会にて日本語での発表を希望される方は、7月例会への応募をお願いいたします。日程は決定し次第、メールにてお知らせいたします。みなさまの積極的なご参加をお待ち申し上げます。
第119回例会(2019年3月例会)のお知らせ
以下の要領で3月例会を行います。例会終了後、大学内のカフェテリアで懇親会も予定していますので、あわせてご参加ください。
日時: 2019年3月16日(土) 15:00~17:30
場所: 同志社大学今出川キャンパス 至誠館3F会議室
研究発表1.渡部 佐代子 (神戸市外国語大学非常勤講師) | ||
『心の死』と書く女たち――エリザベス・ボウエンの<部屋> (The Death of the Heart and Women keeping diaries: A “Room” of Elizabeth Bowen) |
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研究発表2.松原 栄子 (青山学院大学大学院生) | ||
大衆社会の新たな格差――Underground (1928)における「普通の人びと」 (New Disparity in Mass Society: “Ordinary work-a-day people” in Underground(1928)) |
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研究発表3.中土井 智 (神戸市外国語大学大学院生) | ||
‘Queer fish?’ ――『ダロウェイ夫人』に見られる「女性」の抑圧と防衛 (‘Queer fish?’ : Suppression and Defense of Sex in Mrs. Dalloway) |
3月例会の発表概要
研究発表1
『心の死』と書く女たち――エリザベス・ボウエンの<部屋>
神戸市外国語大学非常勤講師 渡部 佐代子
エリザベス・ボウエンの長編小説6作目、『心の死』(The Death of the Heart, 1938)は、彼女が長編・短編小説で繰り返し描いた「無垢と経験」、「若さと成熟」というテーマでこれまで論じられてきた。16歳で両親を亡くしたポーシャは、ロンドンに住む腹違いの兄トーマスとその妻アンナに引き取られるが、二人の打ち解けない態度に絶望を感じる。このポーシャの孤独は、作者ボウエンが13歳で母親を亡くし、父親が療養中であったため、親戚の家を転々とした少女期の孤独と重なり、この作品を無垢な少女が両親の死や孤独、裏切りといった辛い経験を通して成長し、大人の世界に入って行く物語であることは間違いない。
しかし、ニール・コーコラン(Neil Corcoran)が小説の中で重要なモチーフとなっているポーシャの日記に注目し、「アンナがポーシャの日記を盗み読み、アンナはその内容にひどく傷つけられるというプロットが『心の死』の中心的な主題である」と指摘する。ポーシャとアンナの対立という彼の分析を鑑みると、ただ単純に少女の「無垢と経験」を扱った作品にとどまらず、二人にとって(日記を)「書く」ことはどのような意味を持つのかという疑問が浮かび上がる。この疑問について、当時ボウエンと交流のあったヴァージニア・ウルフが、女性が「書く」ことについて提起した主張は手がかりを与えてくれるだろう。こうしたことを踏まえ、本論では、ウルフの『自分自身の部屋』に手がかりを求め、ポーシャとアンナが「書く」ことの意味について考察してみたい。
アンナは学校を卒業後、仕事の成功と恋愛成就を望んでいたことから、ウルフが女性の経済的自立と精神的自立を主張したように、自立を志す女性であることがうかがえる。しかしながら、彼女は間もなく仕事に失敗し、恋人との屈辱的な破局を迎える。そんな傷心を抱えていたとき、アンナはトーマスと出会い、結婚した。現在の彼女は、ほどほどの自由と仕事に折り合いをつけ、有閑階級の夫人を演じて男性優位社会に合わせる術を身につけていた。
そんなアンナは、親友で小説家のセント・クウェンティンにポーシャのことを相談し、セント・クウェンティンが日記を書くことは「自分を喜ばせる」ものだと定義するが、彼女は反対に「不愉快な感情を与える」ものだと言う。アンナが不愉快な感情を覚える理由は、男性が築いてきた言葉に対する違和感であり、女性が表現する言葉に限界を感じていることを意味している。そのため、アンナは「私であること」を確かめるために日記を書きながらも自分を捉えられない。「自分自身の用法で話す言葉が見つからないので、不完全に翻訳されることに自らをゆだねてしまう。人は諸々の関係に入るとき、ごまかして妥協しているのだ」と夢や希望に挫折し、男性優位社会の規則に従い、不満や妥協を強いられた自分の人生を振り返る。
それから時が経過し、ある日、アンナとポーシャは別々にリージェント・パークを散歩して同じ光景を見る。女性を表す「金星」が水面でねじれている様子は、まさにアンナの人生、彼女が歩んできた過去を見つめていることがうかがえる。一方、ポーシャはこれから歩むだろう彼女の未来を予感している。それはポーシャがアンナと同じく、これからの自分の人生に夢を抱き、新たな女性像を築き上げようとするけれども、結局多くの挫折を経験し、「検閲され、困惑した女の人生、知性のみがさらに模様をゆがめる人生」を辿ることを示唆しているようだ。
研究発表2
大衆社会の新たな格差——Underground (1928)における 「普通の人びと」
青山学院大学大学院生 松原 栄子
1863年に世界初の地下鉄がロンドンを走り始めて以来、地下鉄は多くの文学作品に描かれてきたが、その多くは地下鉄を非人間的な機械文明の象徴としてネガティブに捉えていた。例えば、ウィリアム・モリスは1890年の『ユートピアだより』で、蒸気機関であった地下鉄を「きぜわしく満ち足りぬ人類の蒸し風呂」と非難し、E.M. フォースターは、1910年の短編「機械は止まる」において、当時の地下鉄ホームを思わせる世界を舞台に、機械文明に支配されたディストピアを描いた。ヴァージニア・ウルフは、1931年に『波』において、地下鉄ピカデリー・サーカス駅を帝国主義の暗部として、また無言でエスカレーターで地下に運ばれる群衆に第一次世界大戦の死者たちを重ねた。さらに、地下鉄の乗客たちを、「嫌悪感を催す、声を持たない大衆」と登場人物たちに幾度となく語らせている。文学作品において、地下鉄は時には文明批判の象徴として、時には階級意識による労働者嫌悪の対象となっていたのである。
映画として地下鉄を描いたのはアンソニー・アスキスの1928年のサイレント映画、Undergroundが初めてである。アスキスは、ロンドンの普通の若者を描く舞台として地下鉄を用いた。ウルフが、「嫌悪感を催す」と表現した地下鉄を利用する人びとを “ordinary work-a-day people”と捉え、彼/女らが地下鉄と親密な関係を結ぶ日常を舞台に、四人の若者たちの四角関係のドラマを描いたのである。第一次世界大戦後のイギリスは、プリーストリーが『イングランド紀行』で論じたように、「本質的に民主主義」の、「庶民が初めてご主人や女主人と同等の地位を獲得した」新しい時代であり、「歴史上もっとも無階級の社会になった」ときである。そのような社会に生きるこの映画の人びともまた、階級差の苦しみからは無縁である。彼/女らが恋の相手を選ぶのは、階級でも財産でもなく、その理由が語られることはない。しかし、この四人の恋愛関係が、一方がハッピーエンドに終わり、もう一方が殺人と挫折に終わるという結末には、階級や富とは違う別の価値観がこの時代の若者たちに芽生えたことを意味するのではないだろうか。
この発表は、Undergroundにおける四角関係を考察することで、20世紀初めの「普通の人びと」における新たな階級内格差を見出だそうとするものである。最初に、従来のメロドラマ理論にのっとり、この映画の四角関係を考察する。メロドラマにおいて重要となる善と悪の対決が、この映画における恋愛の勝者と敗者の関係を表しており、それが階級内格差、つまり若者における新たな序列構造につながることをみていく。次に、この映画の時代性を考える。イギリス1920年代は、主人公の一人が働くデパートに代表されるような消費文化が花開く時代であり、映画公開の同年に成立した選挙法改正によって制度上の男女平等が実現した時代である。彼/女らの恋愛における価値観には、そのような時代の影響が見えるのではないでだろうか。同時に、この映画には、「普通の人びと」の枠にさえ入れない者たちの存在も描かれている。映画のクライマックスのシーンに登場する盲目の男性の存在に注目することで、画面の端々に隠されたそのような人びとの存在もまた明らかにし、「普通の人びと」という言葉に隠れた新たな格差をみていきたい。
研究発表3
‘Queer fish?’——『ダロウェイ夫人』に見られる「女性」の抑圧と防衛
神戸市外国語大学大学院生 中土井 智
『ジェイコブの部屋』(1922)において女性視点の語りを編み出したウルフは、次の作品『ダロウェイ夫人』(1925)において、この語りを登場人物達に実践させようと試みている(Diary 46)。本作品で物語る主要人物の一人がクラリッサ・ダロウェイである。彼女の語り手としての主体性を考える際に、セプティマスという存在の解釈は要点のひとつであり続けてきた。両者の関係については、例えば、セプティマスの自殺はクラリッサに亡くなった息子を悼む象徴的な母親像を思い出させるとの解釈 (Minow-Pinkney)、クラリッサとセプティマスはウルフが抱く真実の2つの対極面を表しているという解釈(Ruotolo)、人は他者から見えないところでも生きると考えるクラリッサの「超越主義」に関連付けた神秘的な繋がりとみなす解釈(Lane)、あるいはセプティマスの「病」は女性の言葉に対して家父長制の社会が課す抑圧の投影であり、彼をクラリッサの内面的ダブルとする解釈(Eto)などがある。
ウルフ作品に現れる女性登場人物達の語りに母親像やケア労働といった女性の社会的なジェンダーロールに基礎づけられた主体性の創造性を読み取り、そのような主体による語りが生み出すコミュニケーション作用について考察するJessica Bermanによると、彼女の作品における語りの主体間の移動は、登場人物同士の倫理的差異を前景化することによって、各主体が自らが所属する共同体の倫理とは異なる共同体の倫理と出会い新たな関係を築くきっかけとして作用しているという(40)。Bermanは女性の主体性を日常生活で培われた身体性に基礎づけるのだが、では、クラリッサのパーティにセプティマスがいない理由は、語り手としてのクラリッサの主体性の如何なる欠如に求められるだろうか。
その際、死ななければならないセプティマスが創造者(詩人)であろうとしている点は見逃すべきではない。ウルフは『自分だけの部屋』(1928)において、女性と創造という問題を社会秩序との関わりの中で考察している。そこで筆者は、詩的才能を持って生まれながら社会からの反発にあい自殺したシェイクスピアの妹Judithを仮定し、16世紀からエッセイ執筆当時の現代に至るまで女性の創造性の発現が疎外される状況を指摘している(62)。ウルフはまた“Woman and Fiction”において、(少なくとも19世紀の)女性の小説にはその性(sex)に独特の存在が現れており、この正当に認められない権利を主張している事が伺えると述べているが、同様の主張が労働者階級の男性(working-man)の作品にも見られると指摘する(80)。この記述は、本作品においてはクラリッサの抑圧された女性性が、下層中産階級に属するセプティマス・ウォレン・スミスの階級的境遇に置き換えられていると解釈する妥当性を示すのではないだろうか。
リュス・イリガライは『差異の文化のために』にて、「父権制文化の秩序は、すべての創造を女性に禁じ、不可能にすることによって、女性を出産と呼ばれるものだけに追い込んだ。出産というレベルから見れば、女性が精神的価値のあるものを生み出すことに対して認められる権利をもはや一つも持ってはいない男同士の文明の中で、今日、作品の美とその定義との間に混乱が見られるようだ」(106)という。
本発表ではBermanの共同体論を踏まえた上で、クラリッサとセプティマスの出会いの失敗(Joyes)を、母親としてでもなく、娘としてでもない、女の身体性に基づく「女性」の語りの主体性の観点から分析し、本作品の社会制度批判(Diary 56)に女性性抑圧の構図があると明らかにする事を目的とする。