第117回例会(2018年3月例会)のお知らせ
寒さの中にも春の陽ざしを感じる頃となりました。みなさまにおかれましてはお健やかにお過ごしのことと拝察いたします。さて、事務局から3月例会のご案内を差し上げます。今回は、大田信良先生と大谷伴子先生による共同研究発表1件の予定です。年度末のお忙しい時期とは存じますが、ふるってご参加ください。例会終了後、大学内のカフェテリアで懇親会も予定しています。みなさまのご参加を心よりお待ち申し上げます。
日時: 2018年3月3日(土) 15:00~17:00
場所: 同志社大学今出川キャンパス 弘風館地下会議室
研究発表: 大田 信良(東京学芸大学教授)
共同発表者:大谷 伴子(東京学芸大学非常勤講師)
発表題目: ポスト帝国の「英文学」とG・S・フレイザー
――「現代的問題」としての「現代の英文学」の発明
(“English Literature” in Post-Empire and G. S. Fraser: The Invention of “Modern English Literature” as “the Question of Modernity”)
発表概要
本発表は、まずもって、ポストコロニアリズム研究の先駆的かつ代表的な業績である齋藤一『帝国日本の英文学』(2006)を、ポスト帝国の視座から、継続・拡張しようとするものであり、そのうえでさらに、旧来の「英文学」を新しい21 世紀のグローバルなコンテクストにおいて新たなイングリッシュ・スタディーズへ再編する可能性を探るものである。その際、グローバルな資本主義世界とその文学・文化の歴史的過程において、とりわけ、19世紀末の帝国主義期ならびに第2次大戦後の冷戦期に、特異な位置を占める日本の地政学的条件を視野に入れて、開発研究をはじめとする各種の政策学やグローバリゼーション・スタディーズの仕事を翻訳・更新することを企図する。
具体的には、本発表は、まず第1に、G・S・フレイザー『現代の英文学』上田勤・木下順二・平井正穂訳 東京: 研究社, 1952.およびその英語版G. S. Fraser, The Modern Writer and His World. Tokyo: Kenkyusha,1951.を取り上げて、そのテクストならびに歴史的コンテクストを解釈する。フレイザーは、英国の文化使節として1950年初頭に来日し、同年の4月~6月まで12回にわたって東京大学で講じた現代20世紀の英文学に関する講義を土台に、その後少なからざる加筆をしたうえで、翌1951年に研究社から英語版が出版され、その後日本語訳が出された。また、フレイザーが、米国あるいはGHQの統治下にあった敗戦後の1949年、新たな日本にとって意味のあるものをあらためて主体的に英国文化から学びとるために設立された団体、あるびよん・くらぶの機関誌『あるびよん―英文化綜合誌』(1949-60、全48号)の寄稿者であることは、すでに、大道千穂「あるびよん・くらぶ再評価――戦後日本の英文学研究についての一考察」2017年度日本ヴァージニア・ウルフ協会全国大会(於 東洋大学・白山キャンパス 2017年10月29日)が指摘したとおりである。
では、フレイザーのテクストとはいかなるものとして受容されどのような歴史的意味をもったのか。ポスト帝国日本の「英文学」に翻訳した訳者たちも述べるように、『現代の英文学』の特色は、「我々が身を以て取組んでいる現代的な問題が、一八九〇年以降、英国の個々の作家を通じて如何なる展開を示し、二度の大戦を経て、現在如何なる形態を示しているかを、最も現代的な問題に富む作家と作品を論ずることによって深く考察し、犀利な知性を以て鋭く分析している点にある」(フレイザー 538)。英国人フレイザーによって「措定された問題」、すなわち、マネーとパワーのグローバルな移行とそれにともなう地政学的な再編の効果としての米ソ冷戦という歴史性において姿をあらわすモダニティという問題が、今日の世界に於いては、我々日本人の切実な問題でもあるために、このテクストは「洵に現代に於いて生きた文学史」となっており、そのために、当時の日本の英文学者たちに痛切に迫るものをもっている(フレイザー 538)。
こうして、「現代的問題」としての「現代の英文学」は、第2次大戦に勝利したものの米国にマネーとパワーあるいは覇権を譲り渡し米ソ冷戦のイデオロギー的配置のなかに組み込まれていくポスト帝国イギリスと米国等の諸パワーとの戦いにおいて敗戦を経験し植民地を失うだけでなく占領期も経験したポスト帝国日本とが、トランスナショナルな移動や交渉・交流の過程において交錯する空間において、発明された。訳者「あとがき」も指摘するように、現代英文学について、個々の作家・作品の理解や翻訳ではなく、「その思想的背景を含めて現代の英文学を総括的に取り扱った良い参考書」あるいは「現代英文学の歴史全体」をまとめるという試みは、大日本帝国が終焉したのちにあらためて明治期の「英学」あるいは「英文学」を復興した日本の地政学的空間においてこそ、歴史的に可能になった、といえるかもしれない(フレイザー 537-38)。フレイザー自身が「はしがき」で、次のように述べている――「もし英国に居ったならば、果してこのような野心的な仕事を企てる勇気を持ち得たかどうか疑問に思う」(フレイザー 1)。
第2に、重層的に共存し相互に規定しあうことで翻訳・変換されるポスト帝国という歴史状況、あるいはまた、さまざまに姿を変え変容するモダニティという歴史的可能性の条件を、具体的な解釈やリーディングの行為において探るために、戦間期英国の郊外のドメスティックな空間を前景化しながらアジア・太平洋を含むグローバルな地政学的空間をも指し示す一群の芝居テクスト、フレイザーが「郊外家庭劇」とよんだサブジャンルに属する諸テクストを、フレイザーの「生きた文学史」やその歴史の全体性を支える区分・区別にいわばあえて逆らって、読み直しその歴史的意味を再考する可能性を探る。具体的には、ドウディ・スミスの『サーヴィス』を中心に取り上げ、サマセット・モームの『ひとめぐり』の意味を再解釈する、と同時に、「客間劇からプロフェッショナル劇への移行」の歴史化あるいは地政学的な規定の解釈を試みたい。言い換えれば、ポスト帝国の視座から「郊外家庭劇」を読み直したい。