第114回例会(2016年7月例会)のお知らせ
梅雨に入り暑さも増してきましたが、みなさま方におかれましては、健やかにお過ごしのことと拝察いたします。さて、事務局から7月例会のご案内を差し上げます。今回は、米国はシカゴ大学から新進気鋭のモダニズムの研究者がゲスト出演され、また協会の研究を牽引してきたヴェテラン大田信良先生がお話をされます。例会終了後の懇親会にもぜひいらしてください。
日時 2016年7月16日午後3時から6時半
場所 成蹊大学10号館2階大会議室
司会: 伊藤節(東京家政大学)
講師: 大田信良(東京学芸大学)
題目: 「ポスト占領期日本のなかの「英文学」――いま冷戦を考える意味」
(“English Literature” in Post-occupation Japan: Why Should We Rethink the Cold War Now?)
近年、グローバリゼーション状況の現在からすでに過去の出来事になってしまったかにみえる冷戦をとらえ直し、その歴史的コンテクストにおいてポスト占領期日本に存在したさまざまな政治・経済・文化を再検討しようという研究がなされている。たとえば、Sebastian Conrad, “‘The Colonial Ties Are Liquidated’: Modernization Theory, Post-War Japan and the Global Cold War.” Past and Present 216(2012):181-214.は、1950年代なかばという契機を「グローバル冷戦」という枠組みによりに歴史化したうえで、1960年、箱根でおこなわれたthe “Conference of Modern Japan”以降の「近代化(modernization)」・経済成長の言説や日本のエリア・スタディーズのひとつとしてのアジア研究・教育言説・制度の歴史的編制をたどっている。戦後日本の「近代化」は東西冷戦やヨーロッパ冷戦の進展とズレや時間差を孕みながらも同時併行的に進行したのだが、この日本の物語は、東アジアあるいは極東・太平洋地域における旧植民地と帝国日本との絆/緊張関係が切り離され脱政治化されていく契機でもあった。
本発表の目的は、ポスト占領期日本という歴史的コンテクストあるいは地政学的空間に、「英文学」のさまざまの諸相をいちどは置き直す作業を試みることにより、日本の英文学研究あるいはヴァージニア・ウルフ研究の意味を歴史的に再考することにある。そして、このポスト占領期を幕間とする、1930年代を中心とする戦間期と21世紀の現在にいたるポスト冷戦期の歴史的関係性を、「アメリカの世紀」あるいは「長い20世紀」という視座から再解釈することで、いま冷戦を考える意味を少しでも明確にすることを、最終的には、めざしたい。
具体的には、安西徹雄編『日本のシェイクスピア一〇〇年』東京: 荒竹出版, 1989でも取り上げられている福原麟太郎と中野好夫の「英文学」、すなわち、「教養としてのシェイクスピア」をポスト占領期日本において啓蒙的な輸入・紹介・概説を通じて実践したその仕事を取り上げる。中田佳昭によれば、「福原、中野は、日本においていまだシェイクスピアが十分にその面白さを認められず、広く受け入れられない状況にあって、外国文化の紹介が世間一般において、言葉の真の意味で啓蒙的意義を持っていた時代、研究のフロンティアから出て、シェイクスピアを広い教養の世界に開放したのである」(安西 80-81)。福原および中野の「英文学」は、同時代の専門化し分業化して民衆や大衆との結びつきを断たれた英文学や英語学と区別されるだけでなく、唐木順三『現代史への試み』(1969)が「国家民族社会の問題から遊離し、高踏的文化主義により自己の教養の内部で自足した、いわゆる大正教養派」とその「無形式な教養」として、批判した過去のものとも異なるものであった。編者の安西が「あとがき」で以下のように述べているところから了解されるように、「英文学」をめぐる彼らの仕事は、ポスト占領期日本の近代化に対応したものであった。100年を超える歴史をすでに持つ日本におけるシェイクスピアの翻訳・上演活動は、イギリスにおいてと同様、それぞれの時代の演劇観・文学観さらにはひろく時代の価値観や感受性一般を反映するものであるが、「日本の場合はこれに加えて、日本社会の西欧に対する基本的な態度、スタンスの変化まで鮮明に映し出しているように思える。そして日本の近代史の基軸のひとつが、否応なく西欧化による近代化ということであった以上、このスタンスの変化は当然、過去一世紀の日本の精神史においてもまた、その基軸のひとつをなすものと言わなくてはならない」(安西 187-88)。
本発表では、まず、2人の「教養としてのシェイクスピア」から1950年代なかば以降に抬頭する福田恒存の仕事への直線的物語図式の補助線をなす木下順二の存在に注目し、中野好夫を含む英文学研究とりわけ英国演劇文化が、彼の仕事においてどのように受容されたのか、批判的に吟味したい。ロンドンの劇場街ウェスト・エンドにおいて支配的であった客間劇とそもそも「客間」という空間がいまだ存在していない日本の近代化との間の矛盾とその想像的/イデオロギー的解決の過程が、実際に文化的生産・流通・消費されたモダニズムの政治文化の隠蔽・転位の問題とともに、論じられるはずだ。次に、Noel Streatfeild, Ballet Shoes (1936)とそのさまざまに文化的再生産された諸テクストを取り上げる。「英文学」のさまざまの諸相を、日本において/対してなされた公共政策(教育政策、カルチュラル・ディプロマシー等を含む)や公共圏の言説・制度(日本人論・日本文化論や民主主義化等に関わる)との交錯・重なり合いにおいてとらえるためにも、広義の英語研究として輸入・紹介された児童文学やグローバル・ポピュラー・カルチャーとしての映画・映像文化の領域に拡張して、探りたいからだ。
司会: 山本妙(同志社大学)
講師: Jennifer Scappettone (Associate Professor of English, Creative Writing, and Romance Languages and Literatures at the University of Chicago)
題目: “Between Pentecost and Babel: Wireless Imaginations in Postwar Literary Arts and the Dream (or Nightmare) of a Transnational Language”
梗概: Jennifer Scappettone will give a lecture surrounding the revision of modernist dreams of a supranational language detectable in the visual poetry of the postwar period. She will explore the links between poets' experiments with graphically explosive form and their aspirations to deflect the ideological inscription of segregated national languages in the aftermath of World War II—by creating verbal tableaus lacking a single “fatherland” or “mother tongue,” which expose the mongrel sources and futures of contemporary idioms. Given that we are meeting in Tokyo, the talk will also present the beginnings of Professor Scappettone’s current research on the reoccupation of Ezra Pound and Ernest Fenollosa's The Chinese Character as a Medium for Poetry in visual poetry from Seiichi Niikuni to Xu Bing.
*Scappettone 先生についてはこのウェッブサイトをご覧下さい