2008年度

第28回大会

日時 2008年11月2日(土) 10:00~16:30
場所 広島市立大学 講堂小ホール
〒731-3194 広島市安佐南区大塚東三丁目四番一号
http://www.hiroshima-cu.ac.jp/
交通 JR広島駅/市内電車路線番号②または⑥乗車/紙屋町西下車/徒歩2分/広島バスセンター④番線か②番線よりバス/市立大学前または市立大学入り口下車/徒歩1分または8分

受 付 (9:30~10:00)

開会の辞(10:00)

広島市立大学国際学部長 大東和 武司

Ⅰ 研究発表(10:00~11:40)

司会 東京学芸大学准教授 大田信良

  • ヴァージニア・ウルフ作品における暴力
     青山学院大学大学院 加々美成美

司会 東京学芸大学非常勤講師 加藤 めぐみ

  • 「モノ」で読む『夜と昼』― マンスフィールドの「園遊会」との関連から
     大阪薬科大学非常勤講師 奥村沙矢香
  • ウォルター・ペイターの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とヴァージニア・ウルフのヴィジョン
     東京工芸大学非常勤講師 佐藤牧子

Ⅱ 総会(12:45~13:05)

司会 大手前大学教授 太田素子

  • 会計報告、編集委員会報告、次期大会、その他、ウルフ協会創立30周年記念出版報告
     都留文科大学教授 窪田憲子

Ⅲ シンポジウム (13:05~15:20)

ウルフ、D. H. ロレンス、ジョイスにおける「言葉」の彼方

司会・講師 九州大学准教授 鵜飼信光
講師 聖心女子大学准教授 扶瀬幹生
講師 國學院大學専任講師 上石田麗子

Ⅳ 特別講演 (15:30~16:30)

司会 都留文科大学教授 窪田憲子

  • ヴァージニア・ウルフのPacifism
     日本女子大学名誉教授 出淵敬子

閉会の辞(16:30)

会長 都留文科大学教授 窪田憲子

懇親会(18:00~20:00)

会場 ホテルサンルート広島「茜の間」(電話 082-249-3600)
会費 6000円(学生 3500円)

ヴァージニア・ウルフ作品における暴力 

青山学院大学大学院 加々美成美

イギリスの法律家、ウィリアム・ブラックストンは『イギリス法釈義』(1765-69)の中で夫と妻・親と子・主人と使用人の関係を“three great relations in private life”と定義している。夫は妻を、親は子を、主人は使用人を守る義務を負う代わりに、守られる側の人間たちを従えることができる。ウルフ作品にこれらの関係を当てはめてみると、この関係性を維持し、強化するために家長としての権力を振りかざすラムジー氏・バレット氏のような父親たちの姿などが思い浮かぶ。しかし、服従を強いられる者の中にはただ黙ってそれに従うだけではなく、バレット嬢のように自分に仕えるメイドを従え、駆け落ちという手段で下からの反逆をみせる者もいる。今回の発表では、この父親たちの横暴さ、子どもの裏切りなどを一種の暴力として捉え、分析していく。

参考文献

  • Hammerton, A. James. Cruelty and Companionship: Conflict in Nineteenth-Century Married Life. London: Routledge, 1992.

「モノ」で読む『夜と昼』――マンスフィールドの「園遊会」との関連から

大阪薬科大学非常勤講師 奥村沙矢香

本発表は、内容と形式においてウルフ小説の中で最も因習的であるとされる『夜と昼』を、発表当時の英国の社会・文化的な文脈に照らし合わせて再考するものである。オースティンばりの伝統的な marriage plot が指摘される本作品であるが、実はその plot の展開には、20世紀初頭においてはまだ珍しかった電話などの発明品と、伝統的なコミュニケーション手段としての書物、という新旧2つのモノが共に重要な役割を果たしている。その plot の進展が、ウルフの世代の新しい価値観の生成と結びついていることを考え合わせると、「古い」モノがその一助となるのは奇妙にも思えるが、それは、同時代の科学技術革命に対するウルフの微妙な意識の有り様を示唆しているのである。以上の議論は、マンスフィールドの作品「園遊会」における類似のモノの働きとの関連において展開される。

参考文献

  • Armstrong, Tim. Modernism: A Cultural History. Cambridge: Polity, 2005.
  • Caughie, Pamela L., ed. Virginia Woolf in the Age of Mechanical Reproduction. New York: Garland, 2000.
  • Kern, Stephen. The Culture of Time and Space 1880-1918. 1983. Preface. Stephen Kern. Cambridge, MA: Harvard UP, 2003.
  • Mitchell, J. Lawrence. “Katherine Mansfield and the Aesthetic Object.” Journal of New Zealand Literature 22 (2004): 31-54.

ウォルター・ペイターの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」とヴァージニア・ウルフのヴィジョン

東京工芸大学非常勤講師 佐藤牧子

Woolfは “The Modern Essay”の中でWalter Paterを理想的なエッセイストだと褒めたが、それはPaterのエッセーには無駄なものが入っておらず、Paterがエッセーを執筆する前に執筆素材を融合させているがゆえに、素材の知識ではなく “vision”を描くことに成功しているからである。Paterがダ・ヴィンチの “vision”つまり表には表れない内的経験、 “the invisible presences”を描いている点をWoolfは評価したのである。本発表では、Paterの描いたダ・ヴィンチの内的体験がWoolfが子供時代に経験した内的体験とどのように結びついているのかを探る予定である。

参考文献

  • Cuddy-Keane, Melba. Virginia Woolf, the Intellectual, & the Public Sphere. Cambridge: Cambridge University Press, 2003.
  • Daugherty, Beth Rigel. "Readin', Writin', and Revisin': Virginia Woolf's "How Should One Read a Book?" in Virginia Woolf and the Essay. Eds. Beth Carole Rosenberg and Jeanne Dubino. New York: St. Martin's, 1997. 159-75.
  • Meisel, Perry. The Absent Father: Virginia Woolf and Walter Pater. New Haven and London: Yale UP, 1980.
  • Pater, Walter. “Leonardo da Vinci.” The Renaissance: Studies in Art and Poetry. Ed. Donald L. Hill. 4th ed. London: U of California P, 1893. 77-101.
  • Woolf, Virginia. “A Sketch of the Past.” Moments of Being. 1976. Ed. Jeanne Schulkind. 2nd ed. London: A Harvest Book, 1985. 61-159.

第28回日本ヴァージニア・ウルフ協会大会シンポジウム

ウルフ、D. H. ロレンス、ジョイスにおける「言葉」の彼方

司会・講師 九州大学准教授 鵜飼信光
講師 國學院大學専任講師 上石田麗子
講師 聖心女子大学准教授 扶瀬幹生

エマニュエル・レヴィナスは『全体性と無限』の中で歴史を、戦争が否応なく個人をそこへ結びつけるような全体性と類似したものとして扱っている(「序文」他)。歴史化は個を侵害するある種の暴力として捕らえられるが、逆に無限に隔たった存在としての他者への暴力的にまで激しい渇望が、個を全体性と無縁な無限への運動へ解き放つともされる。この2008年にウルフ協会会員の編集で出版された『転回するモダン』の「はじめに」で遠藤不比等氏は歴史化不能な過剰=細部の歴史化の徹底による補足と触知という目標を掲げておられるが、今回のシムポジウムは言葉をめぐる問題を出発点としながらも、全体性と無縁な個や分断、また、全体性とは異なる、分断を前提とした他との関わり、あるいは「リンク」など、全体性へ向かう歴史化と相容れない存在の様態に目を向けようとするものでもある。

統合的な全体性からの絶縁を可能にするのは、単なる個や分断ではなく、個体内での想定を超えているという意味で遠い「彼方」にある「他」との結合である。このシムポジウムでは、ほぼ同時期に創作活動をしたという以外に、通常の言語を超えたものを志向していたという共通点からウルフ、ロレンス、ジョイスを取り上げるが、共通しているように見える言語観には深い隔たりが横たわり、彼方の他との結合と「ハイパーリンク」が類似している可能性もある。統合的な全体性とは遠く隔たった想定外の反発や結合が見られる場になることがこのシムポジウムの目標である。

呼びかけてくる言葉ーBetween the Actsにおける分断を前提とする融合

九州大学准教授 鵜飼信光

Between the Actsの結末はLa Trobeが新たに構想する劇と対応し、生命の横溢を直に表現するような単音節の、意味のない、すばらしい言葉による、人間同士の戦いと和合の劇という、通常の言語では表現できないものを作品が終わった後へ投射し、想像の中に浮かび上がらせようとする。しかし、Pointz Hallのbig roomでのその場面には、約24時間前の同じ部屋での作品冒頭の場面と幾つかの微妙な対応関係がある。終わった後へと投射される結末は作品の冒頭へと還り、人間同士の戦いと和合の主題はあくまで作品の内部で表現される。

本発表では、言葉の彼方を志向しながら言葉のこちら側にとどまり続けるこの作品の矛盾をはらんだ緊張に焦点を当てながら、野外劇中の一時的な共同体的一体感という形を借りて描かれるものが実のところ、野獣的な敵対ほどにも大きな隔たりを前提とした他者との関係であるという解釈を提示したい。他者とのそのような関係は、他の作品に見られる個人性の溶解とは異なり、分断、離散こそが可能にする融合であり、それは共同体や全体性への志向の対極にあると考えられるだろう。言葉がそこにおいて、たとえ意味を伝達しない場合も、意味の探求への出発を呼びかける他者性の訪れとして働くことも見たい。

動物的言語/言語的動物:ロレンスとウルフにおける言語観の違い

 國學院大學専任講師 石田麗子

ロレンス中期の中篇St. Mawrで、ヒロインLouは、St. Mawrという非言語的存在である馬に対して憧れを抱き、アメリカの荒野の上に「言葉によって堕落していない理想郷」というフィクションを構築しようとする。しかし、彼女の行為は、言語の介入=人間の言語による支配として、圧倒的自然そのものにより、拒否されてしまう。そこには、ロレンス文学の言語を超えたものへの志向が顕著に表れている。これは、言語という既存のシステムからの逃走と捉えられるが、そのようなシステムからの逃走自体が、システムを思わせる型となり、ウルフの1932年10月2日の日記にあるような、ロレンスは「読者をも彼の体系(システム)に引き入れようとする」という批判を招く。

ウルフはBetween the Actsの末尾で、言語を超えたものへの志向を見せているが、それにも拘わらずウルフがこのようにロレンスの一見類似した志向を批判するのはなぜであろうか?この発表では、ロレンスとウルフの動物観及び、言語の意味伝達不可能性についての二人の態度の違いを比較しながらこの問題を考えたい。ロレンスにおいて言語があくまで動物との対極にあるのに対し、ウルフにおいて言語自体が動物のように捉えられている箇所などにも注目する。

ジョイスの文学とハイパー・フィクションのリンク

 聖心女子大学准教授 扶瀬幹生

Joyceの文学の特性の一つとして、デジタル・メディアの普及によって我々に身近なものとなったハイパーリンクの機能をプリント・メディアにおいて先取りしていると言えるのではないか、というのがかねてから検証したいと思っている一つの仮説である。A PortraitやUlysses前半における「意識の流れ」、Ulysses後半の「挿入」「幻想」等の呼び出され方はもとより、より実験的でない例としてDublinersの“The Dead”の後半でGretaの秘話が呼び出される特有のタイミングと効果なども、デジタル・メディアでリンクが「彼方」にあるものを「ここ」に呼び出すタイミングや効果と原理的に似ている。ここで言う特有のタイミングや効果とは、多かれ少なかれ想定外なものが「彼方」から「ここ」に過剰に呼び出されると言うことである。

UlyssesやWakeへの明示的な言及を含むMichael Joyceのafternoon, a story (1987)以来次々と創作が試みられているハイパー・フィクションの世界においても、リンクは創作の要となる機能として常用されている。本発表では「プリント・メディアの晩期」(Bolter)にある我々の現在において、(James) Joyceの文学の特性をどのように再発見できるかを、ハイパー・フィクションの創作や批評の現在を視野に入れながら考察してみたい。

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