2018年度

2018年度の第38回全国大会を11月17日(土)に神戸大学六甲台第2キャンパスにて開催します。プログラム、研究発表・シンポジウムの要旨は以下の通りです。


第38回全国大会 プログラム 

日時 2018年11月17日(土)10:00~17:30
場所 神戸大学・六甲台第2キャンパス 瀧川記念学術交流会館
〒657-8501 神戸市灘区六甲台町 1-1
交通 ■ バス:JR「六甲道」駅、阪急「六甲」駅より神戸市バス36系統(鶴甲団地行き・鶴甲2丁目止まり行き)乗車、「神大文理農学部前」下車(ぞれぞれ15分、10分)
■ タクシー:JR「六甲道」駅より10分、阪急「六甲」駅より5分

 

受  付(9:30~10:00)
開会の辞 (10:00)
  東洋大学准教授 井 上 美 雪
Ⅰ 研 究 発 表(10:00~12:00)
司会
東洋大学准教授 井 上 美 雪
Virginia Woolf のMrs Dallowayにおけるインフルエンザ、シェル・ショック、そして更年期障害
  大東文化大学非常勤講師 四 戸 慶 介
『船出』におけるさまよう思考とうわの空:ヴァージニア・ウルフの注意の技法
  東京大学助教 中 嶋 英 樹
司会
東北大学准教授 大 貫 隆 史
音楽と政治的イデオロギー――E. M. フォースターの『アークティック・サマー』
  学習院大学博士後期課程 増 田 有 希 子
スコティッシュ/モダニスト・ルネサンスと A・A・ミルン――英国の諷刺とヒューマーを読み直す
  福島大学准教授 髙 田 英 和
Ⅱ 総 会(13:00~13:25)
司会
青山学院大学教授 麻 生 えりか
会計報告、編集委員会報告、次期大会、その他
  大手前大学教授 太 田 素 子
Ⅲ シンポジウム(13:30~16:15)
アール・デコ時代の英国モダニズム
司会
東京学芸大学教授 大 田 信 良
講師
法政大学准教授 菊 池 かおり
講師
早稲田大学准教授 松 永 典 子
講師
筑波大学准教授 齋 藤  一 
特別講演 (16:30~17:30)
司会
大手前大学教 太 田 素 子
「山椒魚」と『ダロウェイ夫人』―加害者意識のパラドクス
  神戸市外国語大学名誉教授 御 輿 哲 也
閉会の辞 (17:30)
会長
大手前大学教授 太 田 素 子
懇 親 会 (18:00~20:00)
  会場瀧川記念学術交流会館1階食堂
  会費5500円(学生3000円)
  〒150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25
  青山学院大学文学部 麻生えりか研究室
  日本ヴァージニア・ウルフ協会事務局
  TEL: 03-3409-8298
  E-mail:vwoolfsocietyjpn@gmail.com



研究発表・シンポジウム・特別講演要旨

研究発表要旨

Virginia WoolfのMrs Dallowayにおけるインフルエンザ、シェル・ショック、そして更年期障害

大東文化大学非常勤講師 四戸慶介

 本発表では、Virginia WoolfのMrs Dalloway (1925) におけるClarissa Dallowayのインフルエンザの経験に焦点を当て考察を行う。戦争を背景に拡大した1918年の「スパニッシュ・インフルエンザ」を想起させる病に罹った後、老け込んだという描写にのみ回収されるClarissaの病の苦しみが、周囲の理解を得られないSeptimus Smithの戦場で負った神経症やその詳細が描かれることのないEvelyn Whitbreadの更年期障害といった他の登場人物の病や不調の苦しみといかにテクスト上で共鳴しているのかを探る。Clarissaの病の苦しみがテクスト上でSeptimusやEvelynのそれと絡まりあいながら、人々の共有不可能な苦しみの経験を強調する「バラを愛することがアルメニア人を救う」という思考として彼女の病の経験の内に表される過程を、Woolfの病と身体的不調の経験を通して戦争に批判的に介入するフェミニスト的美学として再考したい。

『船出』におけるさまよう思考とうわの空:ヴァージニア・ウルフの注意の技法

東京大学助教 中嶋英樹

 ヴァージニア・ウルフが「現代のフィクション」にて言及する「普段の一日における普段の精神」とはどのようなものか。アン・バンフィールドは「普段の精神」とは「ぼんやりとしてさまよう」ものと言う。本発表は『船出』を取り上げ、その「さまよう精神」の役割を読み取る。まず、「注意力」に関する科学言説を参照し、「さまよう精神」や「うわの空」が「未熟さ」の証となり、先行研究が議論する教養小説的展開での解決を期待させることを示す。つぎに、『船出』は最終的には教養小説的な完結を迎えないが、そうした結末に至らない理由を、この作品において「注意力の集中」よりも「注意力の拡散」が優位であることと絡めて論じる。

音楽と政治的イデオロギー――E. M. フォースターの『アークティック・サマー』

学習院大学博士後期課程 増田有希子

 『アークティック・サマー』(以下AS)は1911年、フォースターがイタリアを訪れた直後に執筆が開始された小説であるが、未完に終わっている。しかしながら、他の作品と同様に当作品においても音楽が扱われていることは注目に値する。そこで本発表ではASにおける音楽の表象を検証する。ASにおいて音楽が現れる場面は第八章のみであり、また唯一音楽と関わりを持つドロシアはマイナーな登場人物である。しかしながら彼女が生涯の仕事としている民謡の収集は作品のテーマの一端を成す、世紀末から20世紀初頭の政治的イデオロギーと密接に繋がったイギリス民謡復興運動であると考えられる。最後に本発表では、ASにおける音楽の意味について作家の音楽観及び近代以降の音楽思想との関わりから考察し、フォースター作品における当作品の位置づけを明らかにしたい。

スコティッシュ/モダニスト・ルネサンスとA・A・ミルン――英国の諷刺とヒューマーを読み直す

福島大学准教授 髙田英和

 『ヒキガエル屋敷のヒキガエル』(Toad of Toad Hall,1929)は、A・A・ミルンが、ケネス・グレアムの児童文学の名作『楽しい川べ』(The Wind in the Willows,1908)を、英国戦間期に小説から戯曲に翻案したものである。この翻案テクストは、動物が主人公ということもあり、ファンタジーに分類されることになるが、現在の時点から読み直しの作業をおこなうときに、当時「スコティッシュ・ルネサンス」/「スコティッシュ・モダニズム」が出現していたという点を見過ごすことはできないであろう。
 「諷刺」と「ヒューマー」を巧みに用いてイギリス帝国あるいは英国社会の状況をリベラリズムの政治伝統とその継承の立場から議論していた雑誌の『パンチ』(Punch)の編集にも携わっていたミルンにとって、20世紀のイギリス帝国主義の文化とスコットランド性の調整・再編という問題は、どのように『ヒキガエル屋敷のヒキガエル』という「ファンタジー」において表象されているのだろうか。


シンポジウム要旨

アール・デコ時代の英国モダニズム

司会 東京学芸大学教授 大田信良
講師 法政大学准教授 菊池かおり
講師 早稲田大学准教授 松永典子
講師 筑波大学准教授 齋藤一

アール・デコ時代の英国モダニズム

大田信良

 アール・デコ時代について、狭義の芸術・文化あるいはデザインの歴史研究あるいはそこでの概念規定ではなく、別のやり方で思考を試みるなら、たとえば、19世紀末・20世紀の「大衆化」を、すなわち、歴史的に17・18世紀以降の「近代化」と21世紀の「グローバル化」との間にとりあえず位置づけられることになる「近現代の歴史の大きな転換」を特徴づけるタームを、ざっくり、思い浮かべで理解しようとしてもいいかもしれない(「高等学校学習指導要領における『歴史総合』の解答の方向性①(案)」)。1 あるいはまた、類似の身振りによって、次のように、想像力・構想力を働かせつつ思考することもできるかもしれない。第40回新自由主義研究会および第47回冷戦読書会の合同研究会(2016年8月16日(火)於一橋大学)において、Susan Buck-Morss, Dreamworld and Catastrophe: The Passing of Mass Utopia in East and West. Cambridge: MIT, 2000を取り上げた西亮太の口頭発表によるならば、「大衆ユートピアを構築し実現することこそが、20世紀の夢にほかならなかった」。

 Whereas the night dreams of individuals express desires thwarted by the social order and pushed backward into regressive childhood forms, this collective dream dared to imagine a social world in alliance with personal happiness, and promised to adults that its realization would be in harmony with the overcoming of scarcity for all. (Back-Morss xi 下線筆者)

 かつて、20世紀前半において冷戦構造が安定化すると同時に新たな社会的変化・変動が1960年代において進展するまでの時期に、米国・資本主義の西側だけでなくソ連・社会主義の東側でも同様に、大衆ユートピアが想像された時代があった、ということだ。2 その後の歴史的進行においては「夢の世界」と「カタストロフィー」というまったく相反する両極端な姿をあらわすことになる「大衆ユートピアの夢は、第1世界と第2世界における20世紀における文化的プロジェクトを規定していた。それは、第2世界では失敗を宣言され、第1世界では意図的に放棄された」。しかしながら、「このかつては大量生産と大量消費を活気づけたユートピアの衝動には、新たな配置が可能である」そして「ほかの世界がいくらでも存在するのであり、これらの世界もまたそれぞれの夢を抱いている」とみなすことができるという。いったいなにゆえそんなふうに思考するあるいは再考することが可能だというのか。それは大衆ユートピアの夢というものが、一見相容れない対立項をなすかに思われた資本主義と社会主義のどちらの場合でも共有されたものであり、それぞれに、産業的モダナイゼーションを推進したイデオロギーであったのであり、そのうえしかも、そうした「夢自体」が、社会・自然の事物に対する集団的で政治的な欲望の備給・投資を通じて、現実の世界をラディカルに変化させるような計り知れない物質的力にほかならないからである。
 このように思考してみたアール・デコ時代において、英国の文学や文化は、はたして、どのように対応したのだろうか。もしかりに、ハイ・カルチャー/ポピュラー・カルチャー、ユニヴァーサル/ヴァーナキュラー等々のさまざまな「モダン」とその対立項からなるアンチノミーや矛盾をなんなく容易にまたフレキシブルなやり方で媒介・調停してしまうかにみえるといったことがあったとするならば、そのように特異な英国のナショナルな文化状況は、はたして、どのような歴史的移行の物語を、ひそかに、表象している、とともに、そのモダニティに規定された歴史性をどのように刻印していたのか、本シンポジウムで、取り上げてみたい。

 1 「モダニズム」とは区別される「モダン」なスタイルとしてのアール・デコの研究史の概説としては、Charlotte Benton, Tim Benton, and Ghislaine Wood, Art Deco 1910-1939. London: V&A, 2003 がある。また、Bevis Hillier, Art Deco of the Twenties and Thirties。London: Studio Vista, 1968、および、同じ著者のThe World of Art Deco. New York: E. P. Dutton, 1971も参照のこと。アール・デコの再発明あるいはリヴァイヴァルの歴史的コンテクストをなしたのはポストモダニズムであったといわれるが、1933年のニューヨークの摩天楼の頂上で咆哮するキング・コングの表象などを含む「ポピュラー」な文化をその部分として包含しつつ勃興したポストモダニズムによって、米国モダニズムを解釈し直した研究としては、すでに、宮本陽一郎『モダンの黄昏――帝国主義の改体とポストモダニズムの生成』東京: 研究社, 2002がある。

 2 “… the Russian avant-garde had similar ideas even before the revolution. In a real sense, constructivism was a continuation of the movement of ‘art into life’ that had begun in Europe and the United States with the arts and crafts movement and had taken an industrial turn with the decorative art produced at the turn of the century.”
 (Back-Morss 300 下線筆者)

モダニズム建築の抑圧とアール・デコの可能性

菊池 かおり

 これまで中核をなしてきたモダニズム研究では語られてこなかったミドルブラウやドメスティシティなどの観点から20世紀英文学を研究する動きが昨今隆盛を極めている。このような研究動向に着目しつつ、本発表では、モダニズム建築によって軽んじられ抑圧されてきたアール・デコを英国モダニズムとの関係性においてひも解くことを試みる。まずは、アール・デコについて建築批評を踏まえて確認する。次に、アール・デコとモダニズム建築との関係性に焦点をあてる。20世紀初頭にもてはやされたアール・ヌーボーが産業化・機械化に対する反動として主としてハイ・カルチャーなイメージをもつ一方、モダニズム建築が機能主義を旨とする大量生産・大量消費とそれによって可能になる大衆化、あるいはその大衆を通じて繰り広げられる社会の制度化を目指したとするのならば、その間にアール・デコがもたらした意味は何なのか。この問いに対して、ジェンダーやセクシュアリティの視点を交えてアール・デコの可能性を再考することで今後のモダニズム研究の可能性を探る。

英国モダニズムのシスターフッド?

松永典子

 “life”と“art”に政治意識が再起・復活した1930年代のアール・デコは、共産主義か、ファシズムか、いずれかの表明とみなすこともできた、と議論されたことがかつてあった。大量生産とみなされようともあるいはプロパガンダとみなされようとも、アール・デコの目的は、ある定式に――創造するというよりはそのかわりに、ほかの芸術と現実とを解釈するのに適した、スタイル=様式あるいは様式化といったものを生み出すようなすべて出来上がった定式に――、帰着する傾向にあった(Hillier, Art Deco of the Twenties and Thirties)、と。アール・デコ時代についてこのように解釈され論じられた歴史的コンテクストを今一度ふまえたうえで、あらためて、オーデン・グループにつらなる英国男性モダニストたち・知識人たちとヴァージニア・ウルフとの関係をとらえ直すとしたらどうなるだろうか。そしてまた、そのようなモダニズムの文学・文化状況を歴史化しつつ、21世紀の現在にいたるまで問題とされてきたシスターフッドについて再考してみるならばどうなるだろうか。
 イギリス文学における盛期モダニズムおよび後期モダニズムについては歴史的見直しや文化(論)的再検討がさまざまになされて久しい。そのため、同時期に作品を数多く発表したヴァージニア・ウルフおよび作品もまた、読み直しがたびたび求められてきた。1970年代、80年代の第二波フェミニズムからのヴァージニア・ウルフの再評価もそのような見直しのひとつである。こうした評価の変化は、実験的な『ダロウェイ夫人』(1925)からジェンダーの問題を描いた『オーランドー』(1928)へ、文学の形式を主題とする「ベネット氏とブラウン夫人」(1924)から女性作家の可能性を論じた『自分だけの部屋』(1928)や「女とフィクション」(1931)へと、私たちウルフ研究者の関心に影響を与えてきた。
 他方、本協会が2016年に出版した『終わらないフェミニズム』で、私たちはフェミニズム(作品)を新自由主義という新たな視点で読み直した。「第二波フェミニズムは残滓的なあり方で現在のポストフェミニズム状況を構成しており、私たちはそれに新たな声明を吹き込まなければならない」(『終わらないフェミニズム』「はじめに」)。このような宣言で始まった本論集のプロジェクトは終わっていない。
 本発表では、近年のミドルブラウ文化研究にも注目しながら、ウルフと文壇との論争から英国モダニズムの再読を試みる。ただし、ここで注目する文壇との論争とは、有名なベネットとの論争ではなく、ウルフとデズモンド・マカーシーとの論争である。そのうえで、本発表では、1920年にはじまる雑誌上での両者の一連の論争の後に執筆された講演原稿「斜塔」(1940)とりわけそこで提示された共産主義知識人としてのオーデン・グループへの批判的言説を、同時期に執筆された「ミドルブラウ」にも目を配りながら、取りあげることにより、大衆ユートピアのヴィジョンとプロジェクトを包含するアール・デコと英国モダニズムそしてシスターフッドとの関係を探ってみたい。具体的には、ウルフの想定する女性作家および読者を、「ブラウ」の観点から整理するとともに、アール・デコ期という歴史性において英国モダニズムのシスターフッドという観点から、再解釈することになるだろう。ここでウルフが提示した女性読者像は、70年代、80年代の「主婦(housewife)」たちの期待に応えるものだったのか。モダニズムの女たちにシスターフッドは実現したのだろうか。あるいはまた、ミドルブラウ女性たちが読んだ家庭小説(domestic novel)から、モダニズム研究を再考することの意味や可能性についても言及してみたい。

アール・デコと文学――雑誌Horizonを中心に

齋藤一

 批評家シリル・コノリーによって1939年末に創刊され、詩人スティーブン・スペンダーなども参加した雑誌Horizonは、1920年代のモダニズム隆盛のあとの動向を知るうえで重要な雑誌だが、イギリスにおけるアール・デコとモダニズムとの関係を考察する際にも重要な資料である。本発表では、コノリーや同誌寄稿者によるこの両者の関係に対する見解や、関連する先行研究を参照しつつ、雑誌掲載作品の分析を試みる。例えば、創刊号(1940年)に掲載されたH. E. Bates, ‘The Bridge’は、モータリゼーションに対応してあらたな道路と橋の建設が進む郊外の町でゲストハウスを営む姉妹の恋愛模様をめぐる小説であるが、彼女らが親から相続した、二人で住むには大きすぎる家族向けのレンガ作りの家を‘redecorating’したという記述や、建設中の橋の描写などは、議論を深める一つのきっかけになるだろう。

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