2024年度

第44回全国大会 プログラム 

日時 2024年11月9日(土) 10:20〜17:15
場所 福岡大学七隈キャンパス中央図書館1階多目的ホール
〒814-0180 福岡県福岡市城南区七隈8丁目19−1
https://www.fukuoka-u.ac.jp/pdf/aboutus/facilities/202405map.pdf?20240515
https://www.fukuoka-u.ac.jp/help/map/

 

受付(9:50〜)
開会の辞 (10:20)
  成蹊大学教授 遠 藤 不 比 人
Ⅰ 研 究 発 表(10:25~11:55)
司会
成蹊大学教授 遠 藤 不 比 人
「ビルマにいましたのよ」──ウルフと水島のあいだに、あるいは、日英文学のユーラシア表象の可能性
  福島大学教授 髙 田 英 和
ヴァージニア・ウルフと無神論──『ジェイコブの部屋』と『灯台へ』における世俗主義アクティヴィズム
  東京大学助教 与 良 美 紗 子
Ⅱ 総会(12:00〜12:30)
司会
早稲田大学教授 松 永 典 子
会計報告、編集委員会報告、次期大会、その他
  九州大学教授 鵜 飼 信 光
Ⅲ シンポジウム(14:00〜17:00)
ソーシャルなものを多様に構想する——世紀転換期から戦間期にかけての英国の科学と文学
司会・講師
立教大学助教 鈴 木 孫 和
講師
防衛医科大学校准教授 矢 口 朱 美
講師
都留文科大学専任講師 加 太 康 孝
講師
多摩美術大学准教授 中 嶋 英 樹
閉会の辞(17:05)
会長
九州大学教授 鵜 飼 信 光
懇親会(17:30〜19:30)
会場:第二食堂(上記リンク先キャンパスマップ21番の学而会館2階)
会費:6000 円(学生 3000 円)

【お願い】会場内での飲食については、次の品目に限り認められます。
(1)弁当(容器に入っている等の回収が容易なもの)(2)密閉容器に入った飲み物(ペットボトル・水筒等)(3)おにぎり(4)パン類


研究発表・シンポジウム 要旨

研究発表 要旨

「ビルマにいましたのよ」
——ウルフと水島のあいだに、あるいは、日英文学のユーラシア表象の可能性

福島大学教授 髙田 英和

 1950年代に入る9年前の1941年に自らその命を絶つこととなるヴァージニア・ウルフ、その代表的な文学テクスト『ダロウェイ夫人』の登場人物の一人、ピーター・ウォルシュは、在インド英国人であり且つインド帰りであるということは、周知の事柄であるだろう。ただ、そのピーター・ウォルシュは、「ヒマラヤ」にも滞在していたという経緯があることは、それほど知られてはいないだろうし、それを言えば、イギリスはイングランドの「オックスフォード」(の大学)に在籍していて、そこを中途退学しているということも、そうであるだろう。さらには、「ビルマ」にも行っていたということも、おそらく多くの読者の記憶には残っていないだろう。
 そこで、本発表は、植民地・インドの官僚の家系に属する/の出身であるピーター・ウォルシュの表わす、1)「ヒマラヤ」、2)「オックスフォード」、3)「ビルマ」という三つのワード/記号を手がかりにして、20世紀の半ばに関係する「文学」におけるユーラシア(大陸)のおおよそ南東或いは東南に位置する「地域」――エベレスト/チョモランマ及びヤンゴンの辺り――の表象と意義について、大胆にも、主として、ヴァージニア・ウルフの亡くなった7年後に出された日本(児童)文学の本『ビルマの竪琴』の主要なキャラクターである水島(上等兵)の振る舞いを通して、考えてみたい。そして、と同時に、この考察は、逆照射的に、ウルフの入水・自死、その行動の(真の、リアルな)意味と可能性にも通ずることになるはずであろう。

ヴァージニア・ウルフと無神論
——『ジェイコブの部屋』と『灯台へ』における世俗主義アクティヴィズム

東京大学助教 与良 美紗子

 ヴァージニア・ウルフは、長らく、徹底的な無神論者だと思われてきた。だが、近年、その見方は徐々に更新されつつある。ウルフ作品と宗教の関係は―キリスト教にしても、何らかの個人的な宗教にしても―もっと複雑で曖昧なものだと指摘されるようになってきたのだ。
 こうした先行研究を踏まえ、本発表では、以下のことを示唆したい。ウルフ作品において中心的に描かれるのは、何らかの形で宗教性を保存した不信仰であり、徹底的な無神論は、作品が焦点を当てる不信仰「ではないもの」としてしか描かれない。そして、後者の、宗教性の抜本的な否定としての不信仰は、19世紀後半および20世紀前半の世俗主義アクティヴィズム―具体的には、英国世俗協会(National Secular Society、以下NSS)とバーナード・ショーの社会主義―と結びつけられている。
 本発表は、このことを、小説作品『ジェイコブの部屋』と『灯台へ』を通して示唆したい。多くのウルフ作品に信仰を持たないキャラクターが登場するが、この2作品は、何の留保もなく「無神論者」と断定される人物が描かれる点が特徴的だ。
 両作品の不信仰の文脈として重要なのは、19世紀後半のイギリスの世俗主義の様相である。ヴィクトリア朝の不信仰といえば、いわゆる「信仰の危機」の言説と結びつけられる不可知論が有名である。これは、ウルフの父レズリー・スティーヴンらが中心となって標榜したものだ。だが、当時のイギリスの不信仰は一枚岩ではなかった。不可知論者とともに、組織化された世俗主義運動もまた盛り上がりを見せ、特にチャールズ・ブラッドローが中心となったNSSは、より徹底的なキリスト教批判、さらには既存の道徳や政治体制そのものへの批判を繰り広げた。
 NSSの類型と解釈できる無神論者が、ウルフ作品に初めて登場するのは、『ジェイコブの部屋』だ。大英博物館の読書室の場面に、たった一段落だけ登場する無神論者フレイザーは、のちに同じく一段落だけに登場する、無名の礼拝参列者たちと対をなす。両者はともに、より中心的に描かれるキャラクターたちの不信仰・信仰の揺らぎを際立たせる。
 留保なき「無神論者」が、再び登場するのは『灯台へ』である。本作において、リリー・ブリスコウのスピリチュアリティと、ラムゼイ氏の不信仰は、コントラストをなす。だが本作は、両者の繋がりもまた提示し、それは、無神論者タンズレーの存在によって引き立てられる。この作品で、ウルフは宗教のふたつの側面を探求している。ひとつは、Stephen T. Asmaがいうところの宗教の「セラピーの力」だ(4)。リリーとラムゼイ氏は、ともにこの宗教の「セラピーの力」あるいはその世俗的代替物を求めている。対して、タンズレーはそれらの不在としての、より厳密な意味での唯物論的世界を体現する。タンズレーは、NSSとともに、ショーとも結び付けられる。ショーは、社会主義者であるとともに、自らを無神論者と称し、NSSの活動にも参加していた。本発表では、タンズレーの無神論とショーとの繋がりを、「ショーには詩がない」というウルフのコメントを手掛かりに示唆したい。
また『灯台へ』は、宗教の道徳的側面も検討している。リリーとラムゼイ氏は、真実の探求としての人生という福音主義的価値観を、世俗化された形で共有している。だが、タンズレーはこの点でも宗教の遺産と切り離される。
 いずれの作品でも、宗教性を徹底的に排する無神論は、ウルフが中心的に描く不信仰ではない。ウルフ作品に現れる世俗の性質は、おそらく、神の存在を想定するか否だけに注目していては見えてこない。物語の周縁に描かれた、徹底的な不信仰に着目することで、ウルフと宗教の微妙な関係が浮かび上がる。
Asma, Stephen T. Why We Need Religion? Oxford UP, 2018.


シンポジウム要旨

ソーシャルなものを多様に構想する
——世紀転換期から戦間期にかけての英国の科学と文学

司会・講師 立教大学助教 鈴木 孫和
講師 防衛医科大学校准教授 矢口 朱美
講師 都留文科大学専任講師 加太 康孝
講師 多摩美術大学准教授 中嶋 英樹

 ヴァージニア・ウルフの生きた世紀転換期と戦間期は、社会問題の顕在化とともに社会主義と社会学が抬頭した時代だったといえる。19世紀後半、ヴィクトリア朝版の「大恐慌」の到来と長期化が、すでに疑いの目を向けられていた古典派経済学の地位を失墜させると、自由放任主義的なモデルに変わる社会構造を模索する社会主義と社会学が同時発生的に(再)出現した。こうして注目の的となった「社会」をめぐる議論に焦点を当てたい。互いに密接に関係した社会主義と社会学による社会の構想には、様々な(疑似)科学をバックグラウンドに持つ人物が加担している。また、文学もこの営みにおいて特筆に値する役割を果たしたことは疑いようがない。したがって本シンポジウムは、文学と科学の相互関係という多くの研究が蓄積されてきた領域に足を踏み入れつつ、ウルフ研究、モダニズム研究に寄与する新たな議論の提出を目指すものとなる。
 本プロジェクトの柱となる2つの〈ソーシャルなもの〉は、国家・帝国という社会の骨組みと、その中に住む個人・集団である。科学と文学がこれらについてどのように思考し、対話するかを、ウルフとメイ・シンクレアに注目しながら分析する。シンポジウムの前半では、生物学と社会主義を交錯させるアーサー・タンズリーおよびJ・B・S・ホールデインの著作とウルフのテクストを並置し、20世紀初頭における社会主義的な国家・帝国のイメージについて検討する。後半には、心霊研究と優生学を含む19世紀末から戦間期にかけての心理学的言説に注目しつつ、ウルフとシンクレアのテクストを読み解く。後者の読解では、集団をキーワードとし、理論と実社会の双方における個別性の喪失という問題にアプローチすることとなる。
 私たちが生きる21世紀は、人々の分断が加速し、戦争が絶えず、社会のありようを否応なく再考させるパンデミックにまで見舞われた時代である。こうした情勢を受けて、〈ソーシャルなもの〉は今、文化研究や社会学をはじめとした領域で大きな注目を集めている。この流れの中で世紀転換期から20世紀初頭のイギリスを振り返ることは、現在の私たちの生を考えるための新たな視点を見出す契機ともなりうるだろう。(鈴木孫和)

アーサー・G・タンズリーのサイコロジカル・ボタニーとウルフ
——科学と文学における〈社会的なもの〉への意識とその意味

矢口 朱美

 ウルフの生きた時代は、社会主義と社会学が台頭すると同時に、様々な科学のディシプリン化が進んだ時代でもあった。本発表では、それぞれ個別化することを志したはずのディシプリンが、〈社会的なもの〉への意識を介して他の学問分野との混合を起こしながら進行した具体的事例をとりあげ、これに対してウルフが作家としてどのような反応を示したか、そしてそれが意味することについて考察を行いたい。事例としてとりあげるのは、ウルフと同時代を生きた植物学者アーサー・G・タンズリーによるエコロジーの概念の成立と、彼の植物学が精神分析学を取り込みながら、のちには帝国主義と手を結びつつ植物学の新たなディシプリンとなっていったプロセスである。これをウルフの「キュー植物園」や『ダロウェイ夫人』、『灯台へ』といった作品群と並べつつ考察を行っていく。

「社会主義の問題は主として規模の問題である」
——大きさおよび距離に注目してウルフとJ・B・S・ホールデインとを合わせ読む

加太 康孝

 ウルフと同時期に活動した生物学者J・B・S・ホールデインは、人間社会のあり方に科学的視点を導入して考察したことでも知られている(そしてまた、社会主義に傾倒していた)。例えば、生物の大きさがその性質を強く規定することを示す論考「正しい大きさであることについて」(“On Being the Right Size,” 1926)の最終部では、「生物学者にとって、社会主義の問題は主として規模(size)の問題であるように思われる」という考えを開陳している。また「可能な世界」(“Possible Worlds,” 1927)に見られるように、人間を他の生物に喩えつつ時空間に相対的な視点を導入したことも特徴的である。
 ウルフもまた大きさ、そして距離が人間関係に及ぼす影響についての関心を共有していた。「キュー植物園」でかたつむりの視点を導入したり、『灯台へ』で「かくも大きなことが距離に拠っているのだ」とリリー・ブリスコウに思わせたりと、大きさの効果やその相対的な変化は、継続的な関心対象であった。今回の報告では、この関心の表れ方について『船出』および『幕間』を題材とし、ホールデインと合わせ読むことによって検討したい。

メイ・シンクレアの『天国の樹』における集団性と個別性

中嶋 英樹

 「個人」が「社会的な」関係へ組み込まれる様子を書いた作品として、本発表ではメイ・シンクレアの『天国の樹』(The Tree of Heaven, 1917)を取り上げる。
本作では、一方で、「渦巻き(vortex)」のイメージによって、群集、女性参政権運動、第一次世界大戦などが、個人を集団にまとめ上げるちからとして語られる。他方で、この作品では、心霊主義や心霊現象研究が関心を寄せていた、「生者の幻影」と呼ばれるテレパシーめいた現象が個人と個人を結びつけてもいる。「渦巻き」の生み出す関係は、構成員の個別性を消し去って集団へと抽象化し、後者は家族や親族、友人など親密な関係に根ざしたものであり、抽象化とは相容れないように見える。
このように整理される個人と個人の関係性に関する2種の見立てだが、興味深いことに、本作にはその関係性のいずれをも拒絶する人物が登場する。その登場人物がなにを拒んだのか、当時の心理学言説と合わせて読むことで、「社会的なもの」の誘惑と危険性を明らかにしたい。

優生学の起点、科学への疑念
——『三ギニー』における伝記と集団化という問題

鈴木 孫和

 「個人」フランシス・ゴールトンとハヴロック・エリスは、自らの「科学」の素材として伝記に目を付けた。優生学と「天才」の研究は、ライフ・ライティングという文学テクストを出発点としたのである。ここに、科学と文学のひとつの接点を見出すことができるだろう。しかしながら、伝記はゴールトンとエリスの事業に容易に力を貸しはしなかったし、それに端を発する心理学・社会学にも抵抗した。本発表は、この利用される文学の科学への抵抗の一例として、ウルフの『三ギニー』を再読する。ウルフのテクストは、優生学の起点となった伝記を「教育を受けた男性の娘」にとっての「心理学」と位置づけ、その個別具体性をもって、科学による危険な抽象化に対抗する。このことを明らかにすることは、集団というソーシャルな概念のはらむ問題を浮き彫りにすると同時に、ウルフのテクストに科学への懐疑が通底するという見方を強化することにつながるだろう。

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