第112回例会(2015年7月例会)のお知らせ

日時  2015年7月11日(土)15時から17時20分

場所  青山学院大学(渋谷キャンパス)〒150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25
     1170教室(11号館7階)

発表1: 15時~16時
司会: 山本妙(同志社大学)
講師: 鈴木孫和(東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程)
題目: 『オーランドー』執筆に見る継承と影響の不安――ウルフ、レズリー・スティーヴン、伝記(Inheritance and Anxiety of Influence in Orlando: Virginia Woolf, Leslie Stephen, and Biography)

発表2: 16時20分~17時20分
司会: 伊藤節(東京家政大学)
講師: 菊池かおり(成蹊大学、女子栄養大学非常勤講師)
題目: 空間を「作る者」と「使う者」――ヴァージニア・ウルフにおける建築のダイナミズム(The ‘Producer’ and ‘User’ of Space: Architectural Dynamism in Virginia Woolf)


<発表要旨>

『オーランドー』執筆に見る継承と影響の不安――ウルフ、レズリー・スティーヴン、伝記

鈴木孫和

 ヴァージニア・ウルフとレズリー・スティーヴンの関係性は、今日に至るまで盛んに議論されてきたウルフ研究における一大テーマである。しかしながら、こと両者の作家としての比較研究においては、娘がヴィクトリア朝的価値観を体現する父の呪縛を振り払い、モダンな独自の視点を獲得するという紋切型的な議論がいまだに一般的であるように思われる。本発表は、この総意に批判的介入をするために、ウルフとスティーヴンを繋ぐ――にも拘らずこれまで十分な議論がされてこなかった――伝記文学に焦点をしぼり父娘関係の再考を試みる。これが明らかにするのは、ウルフ伝記論の中核がスティーヴンの主張の明らかな反復であること、そして伝記を書くウルフのうちにスティーヴンが乗り越えがたい先行者として意識されていたということである。
 スティーヴンが晩年、主に『ナショナル・レヴュー』誌に寄稿し、後に『ある伝記作家の研究論集』 (1898, 1902) としてまとめられたエッセイにおける彼の伝記文学への言及は、それが『英国人名辞典』 (DNB) に向けられたものであるかより一般的なものであるかにかかわらず、一貫して伝記が辞書的に参照される資料ではなく、作品として読まれる文学であるべきことと、伝記作家の目的が対象の内面描写であることを強調している。このやや見過ごされがちな主張は、(あってはならないことに)ヴィクトリア朝の伝記からの決別を明確にしたウルフの伝記論に、疑念を許さない形で継承されている。本発表はまずこの点に注目し、「伝記」という対象に対する父娘の言説が対立的なものとは解しえないことを確認する。より具体的に言えば、本発表は、第一に「我々の目的は人の魂を表現することなのであって、うわべを飾る虚飾 (bodily trappings) などという無関係なものをあれこれと並べ立てることではないのだ」というスティーヴンの発言を、彼の後継者シドニー・リーを批判し、「ヴィクトリア朝的伝記の時代は終わった」と宣言するウルフの「新しい伝記」 (1927) が「対象の真実の生は、[…]漠然と不明瞭に魂の隠された水脈を蛇行する思考や感情といった内的生にその姿を現すのだ」という文言で反復しているという事実を確認することで、伝記作家としての父親へのウルフの態度が単純な反抗ではあり得なかったはずであることを確認する、ということである。
 この確認作業ののちに考察の対象となるのは、1928年に出版された疑似伝記『オーランドー』である。本書においてウルフは、『英国人名辞典』への言及によってのみならず、『十八世紀の英国文学と文化』(1904)でスティーヴンが用いた「時代精神」という用語の使用によっても、父親との対決を試みている。この後者の用語を用いたスティーヴンへの挑戦のうちに、本発表は伝記作家として「人の魂」を描くことを重要視した父親へのウルフの敗北――すなわち、自身が父の伝記論を継承しているという事実の承認――を読み込む。この読解は、まず「時代精神」という歴史概念をスティーヴンが個人の表象と折り合いをつけつつ用いていたこと、そしてそれをウルフが理解していたということを確認し、その上で、ウルフが(ブルームの「影響の不安」理論を髣髴とさせるような形で)スティーヴンを意図的に誤表象しようと試み、最終的に自己検閲へと走ったという事実を、『オーランドー』草稿を参照しつつ跡づける、という二つの手順を踏んでなされる。
 本発表が明らかにするウルフとスティーヴンの連続性は、一方では二分法的に自陣営の新規性を喧伝した新伝記という運動を批判的に検証するよう促したロウラ・マーカスの仕事に今後も研究成果を積み上げていく必要があることを、そして他方では、後期ヴィクトリア朝伝記文学の再評価が求められることを、示唆する。このように、ウルフ研究に限定されない今後の研究の深化へとつながり得るものだという点においても、「ウルフ、スティーヴン、伝記」というテーマは、重要なものであると言える筈である。

空間を「作る者」と「使う者」-- ヴァージニア・ウルフにおける建築のダイナミズム

菊池かおり

 2003年にAndrew Thackerが刊行したMoving Through Modernity: Space and Geography in Modernism を筆頭に、 ここしばらく日常空間に潜む社会的及び文化的な問題とモダニスト・テクストとの関係を探る研究が活気づいている。このような研究の動向に多大な影響を及ぼしているのが、1990年に英訳出版され急速かつ広範に読み直し及び再評価されてきたHenri LefebvreのThe Production of Spaceと同時期に立て続けに出版された都市/空間論である。
 Thackerは、Lefebvre以外にもHeidegger, Bachelard, Foucault, de Certeau やHarvey を駆使しながら、ウルフを含むモダニストのテクストに表象される「空間」の複雑なネットワークを解き明かす為の理論的なフレームワークを提唱し、モダニズム/モダニティーの時空間についての新たなアプローチを展開している。同様に、脱領域的、理論的なフレームワークを用いて、Youngjoo SonのHere and Now: The Politics of Social Space in D.H. Lawrence and Virginia Woolf (2006)やAnna Snaith and Michael Whitworth編著のLocating Woolf: The Politics of Space and Place (2007)も、ウルフの空間描写及びに「空間」へのアプローチそのものが含蓄する重層的歴史性、政治性を論じている。これらの研究は、 都市と田園、パブリックとプライベート、ポスト・コロニアルな空間形成 、及び交通やテクノロジーの発達により新しく構築、経験されるモダニティーの空間など、多岐にわたる視点を提示し、異なる質の空間を横断する。この横断を通して、 社会的なネットワークと空間構造の関係性、それに対するウルフのチャレンジが考察されている。
 本発表は、モダニズム研究における地政学的なアプローチを支える空間論に伏在しているジェンダーの問題--すなわち空間を「作る者」と「使う者」に分配することで(再)構築されるファロセントリックな建築論--を、建築に対するウルフのアンビバレントな描写を読み解きながら概観する。Lefebvreなどが論じるように、ウルフにとってもまた、建築空間は日常生活の背景ではなく、そのナラティブの骨格であり、既存の社会システムを批判する媒体でもある。しかし、彼の「社会空間」の概念が内包する「ドグマティックな建築家とリベラルな小説家」と言った二項対立の視点では、ウルフの創作活動の意義を理解するには不十分であろう。彼女にとって、建築家と小説家の活動は「空間」を創造すると言う点において並列に考え得るものであり、彼女のテクストは、既存の建築空間に与えられた役割や表象と複雑に絡み合いながら、それらが提示すべき社会構造とは異なるビジョンを喚起する。このような考察は、これまでのモダニズム研究において確立されつつある抑圧的な建築のビジョンを問題視することを含意しており、ウルフのテクストに対しての新たな建築的なフレームワークの必要性を示唆することを目的とする。